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みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
私の養蜂日記ーパート12
2014年1月1日


 

平成25年も今日で終わり

  後の世に伝える覇者の哲学

 朝一番、四方拝を行い、屋敷内になる祖霊の霊廟へ参拝、新年の挨拶をしたあと、家の中に祀られている、神々へ新年の挨拶を済ませた。今年も平穏無事に過ごせるように祈った。昔しきたり通り、お屠蘇で家族一人一人にお酒を注いだ。今年の盃は90年前祖父が全国町村会から記念に送られた「寿《の書かれた、大中小の三セットの赤い漆塗りの盃を用いた。子供達も皆かしこまった顔をして、盃を空けた。その後、例年通りのお正月の膳についた。新しい年の始まりだ。
 私はお酒を飲みながら、今年こそはお酒を止めようと心に誓いながら、お酒が進むにしたがって量を減らそうと心に堅く誓った。さらにお酒が進むにつれて、適量に留めようと心に誓った。更に量が進むにつれて、お酒を飲んだらそのぶん運動しようと心に誓った。
 やはり一番健康が大切だ。毎日1時間から2時間は歩くように心がけている。大学の講義でよく話しているのは、「私の人生を振り返って一番何が大切であったかというと、学歴でも家柄でも、親の社会的な身分でもなく、極めて単純だけれども健康、常識、協調性、加えて向上心である。一つ一つは当然と思うかも知れないが、結構何かが欠けているものだ。皆さんは若いから無限の可能性を秘めている。いまの四つのことは常に忘れないように《と。さて苦労に苦労を重ねた徳川家康はどうして天下を手中にすることが出来たのだろうか。
 家康は生涯ただ一つ、戦に敗れたことがある。隣国の武田信玄に三万の大軍で攻められたとき、織田信長の籠城の要請に従わず果敢に討って出て、三方原の戦いで大敗を喫した。その数ヶ月後信玄は陣没するが、喜ぶ部下を諫めて次のような語った。 「信玄のような武勇の大将は古今稀である。自分は若い頃から彼を見習いたいと思うことが多かった。信玄こそ我らにとって武略の師といってよい。隣国に強敵があるのは幸である。なぜならこちらは油断怠りなく励み、またかりそめの仕置きにも心を遣うゆえに政治も正しくなり家も整う。もし隣国に強敵がなかったら味方も武力のたしなみ薄く上下ともに己を高く思って恥恐れる心を持たないため段々弱くなるものである。信玄のような敵将の死を味方が喜ぶ理(ことわり)はない。《  その十年後、武田家は滅亡する。天目山の戦いで信玄の子勝頼が滅ぼされ、その首が信長のもとで実検された。信長はその首に向かい「信玄が非道であったのでお前もこのような無様な姿になったのだ。信玄はお前に一度は京へのぼれと遺言したそうだが、思い通りに京へおくり、女子供の前で、さらし首にしてやろう《と憎しみを込めた罵声をあびせ、家康の陣へ回した。
 家康は床机に腰掛けていたがすくっと立ち上がり、「若気のゆえにあたら命を落とされたか、安らかに成仏されよ《と首桶に向かって合掌した。信長の厳しい残党狩りが始まとひそかに、甲州兵を領内に隠し入れ捨て扶持を与えた。こうして召し抱えた落武者を前に、家康は「勝頼は父を嗣ぐ器量を持ち合わせていなかった。わしは信玄を父と仰いでその軍法を受け継いでわが兵法としよう。お前たちもわしを信玄の子だと思って武田家にいたときと同じようにわしに仕えて励んで欲しい《と諭した。武田の遺臣はみな感激し家康に心朊したのである。
 後の世に伝える、家康の覇者の哲学で、私はこの先哲から多くのことを学ばせてもらっている。

家康の遺訓(東照宮遺訓)
・人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。
・上自由を常と思えば上足なし。
・心に望み起らば困窮したる時を思いだすべし。
・堪忍は無事長久の基。怒りは敵と思え。
・己を責めて人を責むるな。