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みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
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2020年9月6日


 

 昨日、仙台市民会館会議室で、仙台藩志会の理事会が開かれた。コロナ騒動によって開けなかった今年度初めての理事会であった。30人の方々が集まり、経過報告、課題の審議が行われた。広く県民にも呼びかけて開催されている『伊達学塾』も10月から再開されることになった。1つの歴史ある会の会長職はやはり気が引き締まる思いである。帰りは南三陸町にお住まいの副会長に家まで送ってもらった。
 さて、明日は石巻市立湊小学校6年生への修学旅行の事前研修の講師である。タイトルは『会津藩と白虎隊』である。何故会津藩が最後まで戦ったか。白虎隊の悲劇は何故起こったのかが講演のテーマである。
 会津藩初代保科正之は三代将軍の異母弟ながら家光に大切に扱われ、後事を託された。非常な恩義を感じていたのだろう。会津藩の家訓15箇条を定め、幕末まで春秋2回全家臣が藩校『日新館』で唱和したといわれる。それが会津藩士を最後まで戦わせた精神的な支柱になったのだろう。その第一条は、徳川将軍家のためには会津藩は誠心誠意を尽くし行動せよというものである。普通家訓とは家の掟、自分の家を守れ、殿である会津藩主に忠義を尽くせというのが常識である。
 ところが、この訓えでは自分の家、殿さまはさておき、本家の徳川家に忠義を尽くせというもので、しかも他の藩を見て判断するな、もし徳川家に逆らう藩主がでてきたらそれは私の子孫ではない。家臣はそれに従ってはならない。正之は異母兄ながら家光に可愛がられ、将来も会津藩が徳川家を支えていかなければならないという気持ちから作ったといわれている。これが最後まで会津藩を戦わせる精神的なよりどころとなり、白虎隊の悲劇も生んだ。 16歳から17歳までが白虎(西を守る守護神)隊、18歳から35歳までが朱雀(南を守る守護神)隊、36歳から49歳までが青龍(東を守る守護神)隊、50歳以上が玄武(北を守る守護神)隊で、会津藩士全員が戦闘に参加、また多くの女性も戦った。鳥羽・伏見の戦いで始まり五稜郭の戦いで終わる戊辰戦争では、薩摩・長州を中心とする官軍の死者は3550人、旧幕府軍は4690人で、その中で会津藩は2557人(含む女性194人)である。会津藩の家臣は3107人であるから、いかに大きな犠牲を払ったかは一目瞭然である。会津藩は図南藩として今の青森など実り少ない地へ移封される、苦難の歴史を刻むが多くの偉人も輩出している。会津魂は生きているのである。
 石巻の地は、榎本武揚が五稜郭へ向かう途中立ち寄った港であること、400年前慶長遣欧使節が旅たった地であること、200年以上前石巻から船で米を江戸へ運ぶ途中、福島沖で遭難・漂流した水夫が女帝エカチェリーナ2世に謁見し、同情したエカテリーナがレザノフを第2回遣日施設としてその水夫たちを日本に送り届けさせた。結果的には日本人として始めて世界一周した人となった。その水夫から大槻玄沢が聞き書きして著したのが『環海異聞』であること。新田次郎の『アラスカ物語』や『密航船水安丸』の主人公が旅たった港であるなどについて、分かりやすく話し郷土や歴史に興味を持ってもらえる一助になればと考え工夫しながら物語風に仕立て講話する予定である。
 坂本忠厚校長先生とは長いお付き合いであるが、柴田小学校校長の時代3回、そして昨年、湊小学校へ異動され、今回で5回目の講話となる。教育熱心でいろいろな工夫をされながら生徒が天真爛漫に自立出来るようにさまざまな試みをされている姿には、いつも頭の下がる思いがする。