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みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
296回 牛山剛先生へのお別れのことば /TD>
2023年1月31日


 

 令和4年はいろいろな皆さんとの出会いと別れのとりわけ多い年であった。
 3番目の姉の惠子が急逝した。まだまだ頑張って欲しかった。聡明で常に努力し続けた姉であった。義兄は東北大学で心理学の教授をしていた。そんなこともあったのだろうか。姉を誠心誠意看護し続けてくれた。3人の娘達もそれぞれの分野で頑張っている。姉はとくに練習したわけでもないのに字が極めて上手であった。天分だとしか思えないが数年前形見にしてと1幅の掛け軸をもらったがまさに芸術作品である。末永く家宝として伝えていきたいと思う。
   また、詩人の星乃ミミナ様から「牛山剛先生が逝去《されたという悲しいお知らせをいただいた。先生との出会いは、25年前の1997年7月仙台で開催された「アジア少年少女愛と夢のコンサート《の時だ。主催者である星乃ミミナ様からご紹介いただいたのがご縁であった。先生は昭和6年東京で誕生、東京大学文学部で美学美術史科で学ばれその後、テレビ朝日の音楽プロデューサーとして「題吊のない音楽会《などの制作に携われ、フリー・プロデューサーとして、各種音楽会の構成・演出に活躍された。『美しき音楽ものがたり』(三笠書房)、『ユダヤ人音楽家』『イスラエル・フィル誕生物語』(ミルトス)他多数の著作を残された。「アジア少年少女愛と夢のコンサート《をプロジュースされ、そのご縁で牛山先生と懇意になった。
 当時私は宮城県文化振興課長の役職にあったが、「アジア少年少女愛と夢のコンサート《を宮城県とNHKが共催という形で関与し大成功を収めた。その後台湾やモンゴルなど各地で開催された。当時私はNHK仙台の文化センターなどで講座を担当していたが、牛山先生から是非それを本として出版するように、また出版社を紹介しますというお話しを受けた。そこで最初に出版したのが「みちのくの和歌、遥かなり《で、踏青社という出版社の斎籐煕社長を紹介され、東京で打ち合わせをした。何か夢のようなお話しであった。牛山先生からは見出しの付け方、章の立て方など基本的なことを教わった上、原稿の加除訂正もしていただいた。自分の本が全国の書店に並べられたときは何か恥ずかしい気がした。大きな反響があり3版と版を重ねた。その当時、日本文藝家協会から電話を頂き推薦会員として迎えたいとの話を受け受託した。
 今考えてみると私は子供の成長期、執筆に専念していたように思う。そのあと、「みちのくの指導者、凜たり《「武将歌人、伊達政宗《「仙台藩最後のお姫さま、北の大地に馳せた夢(伊達君代氏との共著)《「東北の文学風土《「仙台藩に彩りを添えたお姫さま《などを出版、また新人物往来社の「歴史読本《や「別冊 歴史読本《など多くの執筆の機会に恵まれたが、ひとえに星乃ミミナ様から紹介された牛山先生のおかげと感謝をしている。先生からは毎年一冊の本を出すようにといわれていたが、宮城県を退職後仙台大学に勤務し「歴史と人間《の講座を担当、その傍ら仙台大学の経営母体である朴沢学園の「裁縫教育資料《の文化財指定の仕事に着手、令和2年8月までに4516点の仙台市有形文化財の指定を受けた。朴沢学園理事長朴澤泰治氏の理解のもと、朴沢学園の齋籐敬さん、田中慶子さんとプロジェクトチームを組んでなしえた成果である、
 そんな多忙な13年間を送ってしまったので、牛山先生からいわれた毎年一冊の本を出すようにというお話しは先延ばしになってしまった、
   昨年牛山先生の葬儀に参列するため東京に伺ったが、お世話になった方々がそれぞれ歌を唄い、楽器を奏で先生に相応しいお葬儀で会った。お別れの言葉は、東京大学の同級生の弁護士瀬尾信雄先生が語りかけるようにお話になられた、牛山先生本当にお世話になりました。先生との出会いは私にとっては「新鮮な衝撃《であり、活動の範囲や新しい人間関係の構築に大きな影響を与えられ、今の自分があると感謝に堪えない。。
 私も先生からお話しのあったように残された時間に、後世に残るような本を書きたいと思う。それが牛山先生に対する私の報恩の証と考えている。