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みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
義兄・菊池仁の追悼の言葉
2026年1月26日
 1月24日登米市中田町光明寺で、篤姉の一周忌が営まれた。
 時節柄、子供や孫が中心で行われ、私が篤姉弟(きょうだい)の代表として出席した。甥や姪は見な立派に活躍、その子供たちも皆健全に育っていた。何よりも大切でまた嬉しいことだ。
 篤姉の夫君の義兄は、病院で療養中なので欠席したが、その都度メールで動画を送り兄から感謝された。
 光明寺は今まで見たこともないような立派な贅の限りを尽くした建物で、最初見たときは驚いた。これだけの建物を建てるのにはかなりの財力が必要だ。強力な支援者がいるに違いないと感じた。
 姉の御前、墓所に香華を供え在りし日の姉を偲んだ。義兄(菊池仁)から寄せられた思い出を掲載し、姉の冥福を祈ろう。篤さんの思い出 (菊池仁)
 出会いは、公立米谷病院に勤務していた頃、登米の山のお宅でお見合いをした。出席者は私の母と、登米のご両親、篤さんの母の実家花泉町湯島の祖父、登米伊達家の家令菅原光男である。篤さんに案内され自宅内にある登米伊達家4代宗倫様の御廟を参拝した。参拝を終えてすぐ側のご自宅に向かう途中、篤さんの挙措動作に感銘を深めた私は、生涯の伴侶はこの人に決めたと心に固く誓った。
 篤さんとのお付き合いは順調に進み、皆の祝福を受けて婚約した。結婚式場は仙台で一番立派なホテル江陽会館で挙げた。結婚式の席上、お色直しをする都度、奇麗だなーと誇らしく感じたものである。篤さんはやはり素晴らしい女性だった。
 お茶をやりたいと言っていた。公立気仙沼病院勤務中である。そこで仙台市青葉区水の森に土地を求めた。家屋は義弟の紹介で懇意にしていた中新田町の宮大工さんに依頼した。その機会に裏千家流の茶室も造ってもらった。床柱は登米の古い多行松などを利用し、円窓も備えた本格的な茶室を造ってもらった。
私が公立気仙沼病院に赴任し本格的なお茶をはじめ、行台子 新馬宗恵先生に師事した。篤さんの人柄もあるとは思うが、伊達のお姫様がどのように弟子をするか注目の的になりました。篤さんは、やがて教授、正教授になりましたが、篤さんのたゆまぬ勉強の成果は、東京市谷の裏千家道場ゼミナールに3年間通い続けた賜物であります。篤さんは、やるべきことはしっかりやり遂げる人でした。時には仙台に裏千家から指導に来られました折など、茶のお手前に違うことに気づき質問してさらなる勉学にいそしみました。篤さんはやるべきことは全力を尽くしてやり遂げる人で、私もそれについても今でも尊敬しています。玄室大宗匠来仙の折、勝山舘で茶会が行われ宗匠付となり、宗匠がお庭を散策されたりすると、そっと遠くから見守り続け、気が付かれた宗匠から「有難う」と一言お礼の言葉をいただいたこともあったそうです。誰にひけらかすこともなくそっと私に漏らしてくれました。
 塩釜神社祭礼時に茶席を設けることは茶人としては最高の名誉でした。篤さんは2度茶席を設ける機会を得ました。2度目は千玄室大宗匠自らの指示で社中と記念撮影をしました。まもなく名誉師範が贈与され、千玄室大宗匠と撮った2人の写真が裏千家の機関紙『淡交』に掲載されるまでになりました。余談になりますが、菊池家の菩提寺光明寺の住職から「瑞鳳時の鎌田ご住職からお聞きしましたが、篤さんは偉い人だったのですね」と驚いた声で電話をくれたことを思い出しています。お茶会は1人ではできません。社中の人の自覚、相手の協力がないと評価されるお茶会とは言えません。篤さんのお茶席は何時も温かいお茶席でした。お茶席のその場にあった道具ぞろえなどなど。篤さんは家族を大切にしました。誰よりも私が大切にされました。子供達も皆そう思っているのではないでしょうか。皆を大事にする人でした。
 気仙沼病院勤務になった時、私のことを考えたのでしょう。篤さんは車の免許の試験を一発で合格し、日産サニーを運転して仙台と気仙沼を最短距離で往復してくれました。夜は牛小屋の周りを動く狸、道路の端で目を光らせる狐たち、真っ赤な目と口を開けて低く飛ぶヨダカ、留守を守るゴッド姉尚子チャン、走行距離20万キロ越えたサニー、バートウオッチング。思い出では尽きません。
 私が大学に戻り研究生活に入った時、必要な英文論文を綺麗な英字で筆写してくれた篤さんとの思い出が走馬灯のように蘇って来る今日この頃です。篤さんは自分自身よりも私を大切にしてくれた。篤さんの思い出はこの一行に尽きます。篤さん有難う、そしてご苦労様でした。