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みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
史都に刻んだ古川古松軒の想い出
2004年8月14日


  
 『東遊雑記』は、備中の人古川古松軒(こしょうけん、1726〜1807)が、幕府巡見使に随行して、1788年(天明8)63歳の5月6日江戸を発って出羽、津軽、松前・蝦夷地まで行き、下北、南部、仙台と下って10月18日江戸に帰着するまでの見聞を、古歌を交え図入りで記した紀行文です。紀行文からその跡を辿ってみなしょう。
 一行は、9月28日松島へ入りました。
「思い出せしまま記し侍るなり。絶景に感じて、
  朝まだき明行くそらをまつ島や
        雲よりうめる沖の島々  古松軒
 それ松島は天下無双の勝景にして、誠に神仙遊戯の蓬莱山、大唐の西湖というも及びがたき境地なり。海面大いに開けたるに、数百の島じま散在せる景色、さながら落葉の浮かめるごとく、(中略)筆にも言葉にも尽くしがたく、また環浦の奇峯連山、千賀の浦のもの寂びたる弁天の島山、すべて一つとして勝地ならずということなし。およそ諸国の景地、絵に写す時は、その地よりも一入勝れて見ゆるものなり。しかるにこの松島は、たとい探幽、雪舟の再来して写すとも、写し得ること難かるべし。予が如き画道知らざるもの片腹痛けれど、その図を右に画く、童べのたわむれに同じといえども、景色に魂を奪われてそのおもかげ忘れがたく、ことのあらましを図するものなり。」
 古松軒は、瑞巌寺、五大堂を見たあと午前10時観欄亭から仙台藩差し向けの船に乗って塩竈の浦に向けて出航しました。この楼船は大変贅を尽くし赤黄赤白黒の幔幕を廻し、引船数10艘、供船数艘、役船に至るまでさまざまな幕、船印等で飾り立て、それらが風に翻り、舟歌も面白く、艪拍子を揃えて、島巡りをする有様は何とも心地よく、人々はみな長途の労を忘れしばしの感激にひたっていました。松島や雄島に思いを馳せ能因や西行、宗祇や芭蕉の風流がしのばれます。午前2時塩竈の浦に到着しました。古来より風光明媚を詠われた場所ですが、海面は薄く汚れ入り江も沼のように水草が繁り、入船が難しく目印の木をたよりに岸に近づきました。家は3百軒、松島の家々よりはよく見えます。塩竈神社では泉三郎忠衡の献じたという銅の燈籠を見、別当法蓮寺では神楽を見塩竈をあとにしました。多賀城に近づきますが巡見コースからははずれている末の松山を遠望、沖の石に思いを馳せます。 「世に名高き末の松山は、街道より山の頂に見え、わずかばかりの入り込み道なり。宮城郡の内にありて、本の松山・中の松山・末の松山とて小山3つ並び立てり。中にも末の松山、低しといえどもその名高し。この麓に八幡村という在あり。また末松山崇国禅寺と号する禅院あり。すなわちこの寺山、末の松山なり。相伝う、いにしえ深く契りし夫婦のものありていう、もしこの山を浪の越すこともあらば、夫婦の中かわるべし、さもあらずばかわるまじとちぎる。その後遠くこの山をのぞみ見れば、沖より打ち寄する浪越すように見えて、悲しみ嘆きしということなり。
  契りきなかたみに袖をしぼりつゝ
       末の松山浪こさじとは
   またいう、塩竈より西南に当たりて36町道1里に、沖の石村というあり、この村に八三郎という百姓の庭に、沖の石と号す雅なる石あり。石の廻りは泉水にて、この所へ潮のさし引きありといえり。この所より海辺へ18、9町もあるべし、しかるに、潮の差し引きあるは不思議なり。この所も御巡見所にあらざるゆえに行きて見ず。残念なり」。
 そのあと古松軒は、多賀城碑を見ました。
「いまは一間四方の堂を建ててその中に入れ、堂の三方よりのぞき見るように格子を開けて、石のかたわらへ近づくことを赦さず。この日は案内のものが出て戸を開き、御巡見使並びに我らも近くから見ることを得たり。案内人この石のいわれをいう。」
 多賀城碑については、真贋論争のあることを知っていたのでしょう。記載された距離などからさらに検討が必要であると記しています。浮島村では古歌「塩竈のまへに浮きたるうき島のうきて思ひのある世なりけり 山口大王」の歌が、脳裏に去来しました。
「雨谷村という所に古き土橋あり、これ古歌によめるおもわくの橋という、行かず。
  踏まま憂き紅葉の錦散りしきて
     人も通わぬおもわくの橋    西行
野田の玉川はおもわくの橋の下流といえり。
  ゆふされば潮風越してみちのくの
     野田の玉川ちどりなくなり   能因
 十符の里もこの近きわたりにありといえり。いにしえこの里に十符の菅こもを織り、名産とす。
  みちのくのとふの菅こもなゝふには
   君をねなしてみふにわれねむ 顕昭『袖中抄』」
 古松軒は、古歌に思いをめぐらしながら、仙台への道を急いだのです。