トップページへ仙台藩最後のお姫さまみちのくの文学風土
みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
史都に刻んだ橘南谿の想い出
2004年9月11日


  
 『東遊記』は伊勢国(三重県)出身の橘南谿(なんけい1753〜1805)の紀行文で、1785年(天明5)から翌年にかけ、新潟、村上、鶴岡、酒田を経て秋田に向かい、羽州街道沿いに矢立峠を越えて津軽に入り、弘前、三厩、青森、野辺地、七戸、盛岡と奥州街道を歩いて仙台、白石、福島を回って江戸へ帰るまでの佳話・異聞を医術修業をする者の眼で紹介した日本発見の記録です。
   この記録の特徴は、見聞した各地の奇談・奇事・珍物・名所旧跡・畸人・篤行などを紀行と随筆を交えて記述していることです。そして文章は平明達意で民間の諸行事・生活を観察記録してあって当時の人々にも喜ばれ普及しましたが、いまでは民俗研究の貴重な資料でもあります。南谿は、凡例のなかで旅の目的は医学のためであるが、これは旅行中見聞したことを筆のついでに記したものであり、虚実を確認していないので誤りを記した箇所も多いと思うが、杜撰であるととがめないで欲しいと記しています。
 東北では平泉、象潟などを記録にとどめていますが、宮城県内では甲冑堂(白石市)、十符の里(利府町)、名取川の埋木、金華山などを巡っています。とくに塩竈・松島・多賀城に多くの記録をとどめました。
金華山の項では、「奥州金華山は日本の黄金の出初(いでそめ)し山にてその昔、こがね花咲くとよみしところなり。その地また日本東北の限りにありて景色無双の地。実に仙境ともいうべし」と記しています。
 十符の里の項では、「十符の里はいにしえ菅ごもの産出したところで、奥州の名所である。仙台の北東にありこの辺りは玉田・横野・壺の碑・塩竈の浦・野田の玉川・末の松山など名高き名所が集中している」と記しています。そして「それは仙台藩の佐久間洞巖という人が四代藩主の命によって奥羽の地誌や名所旧跡、寺社、山川奇勝を古今の和歌、物語、民話伝説などを記した奥羽観蹟聞老志=iおううかんせきもんろうし)を編纂したおかげであると」と記しています。
 塩竈神社で泉三郎忠衡が寄進した燈籠を見て、藻塩焼く神事などの話しに思いを馳せた南谿は、五月八日塩竈から船で松島を見物、さまざまな表情をした島々を堪能しました。富山に登った南谿は、大仰寺の書院の庭から松島を望み、「全景一望のうちに備わる。おおよそ東西2〜3里、南北六〜七里ばかりと見えて八百八島連なれり風景絵に描ける西湖の図にはなはだ似たり。遙かなたに眼をめぐらせば東洋限りもなく誠に天下第一の絶景筆紙に尽くすべきもあらず(以下略)」と記しています。  壺の碑の項では、「有名な壺の碑は仙台の東北多賀城の古跡にある。すなわち仙台から松島に至る道筋にして、街道よりわずかに二丁四十間入り込む所なり。南都の墨屋松井某享保中に道じるしの石を立てはなはだ明白なり。昔蝦夷は王化に服せず。奥州も大半はその類のものたちが住んでいた。そしてときどき襲撃するので京都より将軍を遣わされてこれを鎮めた。これを鎮守府将軍といい、その居所を鎮守府といった。多賀城はその府である。天平宝治6年大野東人といえるひと多賀城を修理し、この碑を建て四方の路程を記した。いまとなっては千年以上の年を経た古物である。その字は大変古雅にして廣澤(こうたく)が換鵝(かんが)百談にも称美しおけり。多賀城修理の後数100年過ぎて秀衡鎮守府将軍たりし頃は平泉に居住してこの城は廃し、壺碑も失せて鎌倉殿の和歌よみたまいし頃は、名のみ残れる趣であった。
 近世伊達政宗より三代綱村中将の頃、この辺方々尋ね求められしに碑を土中より掘り出せりという。頼朝の時分にも見ることができなかったものを今千年の後に至り文字も明白にその石少しも損ぜずして人々見ること誠に不思議のことなり。(中略)多賀城より7〜80里東北の方南部の野辺地の近在に壺村という所あり。その村に壺山という山ありてこの山に石碑あり。村民その碑を尊敬し社を建てこれを祀り氏神として往古よりみだりに開くこと無し。碑面文字あり。上の字に大字に東という字を彫りつけたりという。(中略)多賀城の碑に西という大字あればこれに対する東の碑有るべき事なり。また夫木集清輔朝臣の歌に、
  石ふみやつかろのおちにありときく
         えそ世の中を思ひはなれぬ
   また西行の山家集に、
  みちのくのおくゆかしくもおもほゆる
              壺のいしぶみ外の浜風
などあればこれらも東の碑にやと思わる」
と記しています。このように壺の碑には多くの人々が限りない想像心をかき立てられたのです。