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みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
宮城の真田一族ーその1
2005年4月10日


 
  
 1636年(寛永13)5月24日午前6時、伊達政宗は江戸桜田藩邸で波乱に満ちた70年の生涯を閉じた。幕府の正史『徳川実記』は、5月26日の条に、次のように記した。
 「政宗の生まれたのは戦国の世である。伊達家は代々武勇の誉れが高かったが、なかでも政宗はとくに勇将で、ついに宿敵葦名氏を滅ぼし、みちのくに覇をとなえた。政宗が攻め落とした城、手中におさめた地は数えきれない程である。元和になって戦国の世が終わり平和になると、泰然自若としていささかも動ずることはなかった。かつ天命を知って人臣の礼を失うことがなかった。自らの国の安泰を守り栄光を子孫に伝えたが、その出所進退を誤らなかったことは、当時の多くの優れた大名や武将のなかでも、特別に勝っていたといえる。(中略 )政宗の時に随い世に応じての行動は、過去の歴史を見てもまさに抜きんでて優れていたと言えるだろう。その政宗はまた武勇の士であると同時に詩を書き歌を詠むという風流な武士でもあった。花鳥風月のなかで老境を楽しんだのは類まれなことであろう。いつの頃作ったのか゛馬上の少年は過ぎ世は平らかにして白髪多し残?天の赦すところなれば楽しまずしてこれ如何せん゛という詩があるがたいへん優れた詩だと思う」。
 政宗の生まれたのは戦国末期。7歳の時、15代将軍足利義昭が追放され、ここで120年続いた戦国時代は終了した。16歳の時織田信長が本能寺の変に倒れた。18歳で家督を相続、23歳のとき宿敵葦名氏を磐梯山麓摺上原で撃破し、奥羽64郡のうち30余郡を手中にするが、24歳のとき小田原に参陣し豊臣秀吉に臣従、32歳の時秀吉に死別、以来徳川三代に仕えた。戦国武将というよりは、江戸幕府草創期その確立に大きな役割を果たした武将である。
 さて1603年(慶長8)2月、徳川家康は征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開いた。大坂城には摂津・河内・和泉に65万石を与えられた関白豊臣秀頼がいた。それに先立ち1601年(慶長6)4月、政宗は今井宗薫に宛てた書状に次のように記し、これを本田正信に伝えて欲しいと書き送っている。「秀頼様が幼少の間は江戸か、伏見か家康様の側に置いて育て、立派に成長したのを見はからってお取り立てするのが、一番良い方法であろう。大坂に置いておけばどんな人が現れ、秀頼様を担ぎ出し謀反におよばぬともかぎらない。それがもとで秀頼様が腹をお切りになられるようなことにでもなれば、亡き太閤様にも申し訳ない。」江戸の家康が最も危惧したのはまさにこのことであり、誰かが秀頼を担ぎ出し謀反することであった。
 この危惧が現実のものとなったのである。政宗にとって最後の戦いになる大坂冬の陣、夏の陣である。夏の陣によって豊臣氏は滅亡した。厳しい残党狩りが行われ、多くの人々の命が露と消えた。悲しい思いをするのは残された女や子供である。秀頼の子国松丸八歳は捕らえられて六条河原の露と消えた。娘は千姫の養女となり剃髪、静かな余生を送った。戦いの後には、数多くの英雄話やまた悲話も伝えられ、あるものは悠久の歴史の中に忘れ去られ、また今に語り継がれている。いまも宮城でひそやかに語り継がれてきた真田一族の物語もその一つであろう。