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みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
宮城の真田一族ーその2
2005年4月17日


 
  
 仙台に伝わる真田一族については諸説があるが、資料が少ないので現地を訪れ在りし日に思いを馳せてまとめてみた。白石市は仙台の南方およそ40キロ離れた人口4万人、城下町の情緒をとどめた水清く緑豊かな町である。歴史は古い。中世の白石氏を経て蒲生氏、上杉氏、藩政時代は伊達家重臣片倉氏16000石の城下町として重きをなした。幕末維新時には奥羽25藩が白石城に会し奥羽列藩同盟を成立させるなど、歴史に光彩を放った場所で、奥州街道の要衝として栄えた町である。西方には不忘山といわれた蔵王の山々が林立している。
 伝えによると大坂城落城の前日大坂方の総参謀真田幸村は片倉重綱に書を送り「我れ東軍の陣容を見るに足下に及ぶものなし。我が運命も最早胆夕に迫れり。我に一女あり。願わくは足下に託して余命を得せしめんと」。その夕方重綱の陣前に駕籠2挺あり、重綱人をしてこれを見せしむるに共に妙齢の女、その1人は即ち幸村の娘なり、重綱政宗公に請いて携え帰ると云々」。12、3歳の少女は、問いかけに対し何の悪びれた様子も見せず「真田左衛門佐幸村の娘、阿梅」と答えたという。付き人は真田家から遣わされた穴山小助の娘であったという。  『老翁聞書』によると「大坂落城の砌、城中よりとし年の程16、7の容貌美麗なる女性、白綾の鉢巻し白柄の長刀を杖つき、重長方の陣先へ出しけり。重綱(重長)、これをつれ帰り給ひて後室となす。真田左衛門佐幸村の息女とす…」と記されている。『老翁聞書』は「寄手諸将の中に、片倉かねての英名、殊にこの度の目を驚かす武功のことなれば、末繁盛ならん事云々」と片倉の力量を見込んで娘の将来を託したとも記している。一方、片倉家では、真田・片倉とも信州諏訪氏の分流なので同族のよしみで娘の将来を託したと伝えている。
 また、京都伏見時代真田家と伊達家の屋敷は隣り合わせで、片倉と真田は旧知の仲だったという説や、伊達家に命運を託したのだなどの説があるが、いずれにしても幸村の娘たちが白石に関わり合いを持ったのだろう。さらに深い信頼があったればこそこのようなことが起こりえたのであろう。
 大坂夏の陣では片倉小十郎重綱は激しい戦いを演じ、殊勲一等と表された働きぶりをした。阿梅を保護した時すでに重綱には妻がいたが、11年後この妻は亡くなり、阿梅は後室として迎えられた。これから推測すれば阿梅は大切な1人の女性として温かく皆に扱われていたのだろう。「賢にして能く家を御し、内助の功尤も多し。天和元年12月8日没す。享年78、白石当信寺に葬る」と刈田郡史に記されている。2人の間には子供はなかった。市内にある当信寺の山門は維新後白石城から移築されたものという。簡素な楚々とした風情あるお寺である。阿梅の墓は如意輪観音像を象っている。如意宝珠と輪宝を持って一切衆生の願望を満たし、苦を救うという変化観音。建立した人の胸に去来したのは、波乱に満ちた生涯を送り、異境の地で果てた阿梅に対する最大の供養だったろうか。  姉を守るように弟大八守信の墓が建立されている。伝えによると幸村は阿梅、阿菖蒲、おかね、大八ら四児の行く末を重綱に託したという。市内の残る数多くの史跡がそれを物語り、この一族がこの地で大切に扱われた様子がうかがわれる。すでに廃寺となっているが月心院は、『刈田郡誌』によると阿梅が父母の菩提を弔うため夫重綱に願い、幸村の位牌を置き、亡父の菩提を弔うために建立した寺であると記している。菩提寺を建立するのは並大抵のことではなかろう。それを可能にしたのは、阿梅がこの地にしっかりと根を下ろし、地元の人たちからも大切に扱われていた何よりの証ではなかろうか。