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みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
宮城の真田一族ーその4
2005年4月31日


 
  
 喜多は政宗の乳母を務め、後に伊達家の大奥を仕切り、賢夫人の誉れ高かった人で、その人となりは今も伝説のように語り継がれている。父は18歳で相続して間もない政宗の名を天下に知らしめたといわれる。1585年(天正13)の、人取合戦のさなか、73歳の高齢を押して出陣、壮烈な戦死を遂げた茂庭良直。喜多7歳の時母は、良直と離別、米沢八幡の神官片倉景重に再嫁、生まれたのが白石片倉氏初代となる弟景綱。景綱が政宗の父輝宗から政宗の養育を仰せつかったのが政宗9歳の時、当時景綱19歳、喜多は37歳、喜多は政宗にとっては母のような存在でもあったろう。喜多にはエピソードも多い。片倉家の馬印「黒釣鐘」の旗は釣り鐘の鳴り響くように、片倉の名を天下に轟かせよと喜多が考案したともいわれる。
  政宗幼少時、政宗を疎んじるものが多く、景綱の身分も低くある日喜多を訪ね「天下を遊歴し、名君君主の知遇を得て身を立て家を興し、もって名を後世に留めたい」と胸の内を明かした。これに対し喜多は威儀を正して景綱に対し静かな口調で、「忠臣は二君に仕えずという。いま政宗君に背いてその志を変えたならば、後世の人は何というだろう。汝の志は成就したとしても、不義不忠の名は消えるものではない。むしろ他邦の君に仕える心があるなら、その一途な気持ちで政宗君に誠心誠意忠節を尽くすならば、その名を後世に残すことになるだろう」と諭したと伝えられる。これを聞いた景綱はその道理に感服、政宗のためにさらに誠心誠意仕えたといわれる。しばしば秀吉にも謁見したといわれ、少納言と呼ばれていたが、政宗を思うあまりの専断が政宗の怒りをかい、自分の僭越な行為は死をもって償うので、首を刎ねるよう泰然自若とした態度で請い、政宗は郷里での蟄居を命じ、刈田郡蔵本村観音前に庵室を営み仏門に帰依、念仏修行に努めながらその生涯を終わった。
 喜多は滝の観音を抱く小高い丘の頂上に埋葬された。政宗は、米沢にあった妙心寺を仙台に再興、喜多の位牌寺とし、長年の功に報いた。仙台市若林区新寺にある妙心寺では、喜多を「開基様」と崇め今も香華がたえない。二代藩主忠宗は、喜多の功を賞し、喜多の名跡を継いだ片倉氏を藩士に取り立て登米・桃生郡内に三百石を与え、子孫は石森村(登米郡中田町)にその名跡を伝えた。明治維新以降東京に移住した。湾岸戦争の時、人質問題でイラク側との折衝の渦中にいた当時のイラク大使はその直系子孫である。
 白石市内には、真田家遺臣が開基したと伝えられる清林寺がある。寺紋は真田家の紋所「六紋連銭」だ。阿梅らを慕って多くの真田の遺臣が仙台領内に入ってきたといわれる。彼らは不忘の山々を見ながら望郷の思いを胸に秘め異境の土と化していったのだろうか。真田の子孫たちは時を越えてまたいろいろなかたちで今の時代を逞しく生きている。 帰路新幹線の窓辺に見える不忘の山は時の移ろいや、人々の栄枯盛衰を見、そしてこれからも見続けることだろう。ふと『奥の細道』の一節が脳裡に去来した。「月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり」。そうだ、人間の生涯も、自余一切のものも、あげて逆旅の客ならざるはない。真田一族の後を辿ってみて、また日本全体が悠久の歴史の旅にあるのを確認する思いであった。不忘の山々は次第に遠ざかっていった。
  かたはらの秋草の花語るらく
    滅びしものは懐かしきかな 若山牧水