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みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
歴史や文化を守り伝える心
2005年5月14日


 
  
 先日、平泉を訪れたが中尊寺へ向かう杉の巨木の参道を歩きながら、歴史や文化を守る心について考えてみた。
 九百年前、前九年の役で父を失い、後三年の役で妻子眷属を失った清衡は、結果として奥羽の要衝の地を手中にした。 鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』によると、清衡は福島の白河関から青森の外ヶ浜に至る二十日余の行程に、一町ごとに阿弥陀像を描いた笠卒塔婆を立て、その中央の地に一基の塔を建てて寺院とした。これが中尊寺であると記している。二階鐘楼には、これを建立するのは古来幾多の戦闘で戦死した敵味方の霊を慰めるためであるとの理由書きがある。
 二代基衡、三代秀衡はその意思を継承し、みちのくに平和な仏国土を築いた。しかし鎌倉勢の攻撃を受けた泰衡は、平泉館に火を放ち秋田へ逃れた。翌日平泉に入った頼朝ら鎌倉勢が見たものは、風に吹かれて広がる広大な館と周囲の屋敷の焼跡で、それは焼失前の偉容を彷彿とさせ、関東武士達を威圧していた。館は焼失したが、前日来の雨で他への類焼は免れた。中尊寺や毛越寺を目にしたときの驚きと感動は、計り知れないものがあったと伝えられる。彼らの心を揺り動かしたのは、華麗な黄金の輝きよりも、藤原氏の平和への祈りではなかったか。この時の思いこそ、鎌倉幕府が終始平泉の諸寺院を保護する原動力となったのである。頼朝の代には平泉寺塔の復旧が命じられ、さらに後年、金色堂の覆堂を造った。中尊寺や毛越寺が焼失するのは鎌倉幕府が滅んだあとのことである。
 それから七百六十年の歳月が経過し、戦後間もない昭和二十五年三月、平泉藤原三代の遺体の学術調査が実施された。多数の副葬品の中に豆粒ほどの小さな金の鈴があった。それを棺の中から拾い上げ、静かに振って鈴音を聞いたときの感動を、調査に立ち会った故中尊寺執事長佐々木実高師は、のちにこう記した。
 「黄金というには余りに可憐な金の小鈴、思わず呼吸をつめた私は、目を閉じ心意を一点に凝らして、静かに静かに振ってみた。小さく、貴く、得も言われぬ神秘の妙音。八百年後の最初の音を聴き得た身の果報。それはまさしく大いなるものの愛情による天来の福音(ふくいん)であった。連日続くあの騒擾(そうじょう)に、恐らくすでに爆発寸前の感情にあったろう私は、文化を護る道は、ただ〃愛情″の二字に尽きることを、この瞬間に強く悟り得たのであった。」  往事に思いを馳せ金色堂の前に立ってみた。金色堂は三代の遺体が眠る墓堂である。しかし墓所のもつ暗いイメージは感じない。極楽浄土を表した装飾の華麗さが暗さを消しているからである。黄金の輝きがこの文化の生命であるが、堂宇のイメージはそれだけであろうか。前に立ったときの快いめまい、荘厳な世界へいざなわれるような美感がつつみこむように迫ってくる。力強い主張ともいえるものがひそんでいるように思える。それは広い意味では文化の力であろうが、併行して確固とした政治の意志がひしひしと感じられる。
   藤原氏が今日なお尊崇され、彼らが遺した文化遺産に多くの人があこがれを抱くのは、中尊寺等の建立に際してかかげた崇高な理念「祈り」が、時空を超えて人々の心を惹き付けてやまないからではないだろうか。歴史や文化を正しく継承し次代へ引き継いでいくには、それらに対する尊敬の念や愛情が不可欠である。私たちはもっと日本や故郷の歴史や文化に尊敬の気持ちを持ち愛情を持つべきである。
(これは平成17年2月5日付河北新報定期論壇へ執筆したものです。)