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みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
史都に刻んだ正岡子規の想い出
2005年7月1日


 
  
 明治二十年代、正岡子規(一八六七〜一九〇二)は俳句革新に挺身し写生俳句を主唱し、文芸性の高い俳句を力説しました。子規は松山市(愛媛県)出身で、日本新聞社に入り、俳諧を研究しました。雑誌『ホトトギス』に拠って写生俳句・写生文を主唱、「歌よみに与ふる書」を発表して短歌革新を試み、新体詩・小説にも筆を染めました。
 子規は、芭蕉二百回忌にあたる明治二六年七月一九日から八月二十日までの一ヶ月間、芭蕉の足跡を訪ねて東北を旅しました。子規は四年前明治二二年に喀血して倒れており病臥の身を押し、死を覚悟しての旅でもありました。「はて知らずの記」はその紀行を句文で著した作品で、同年、自社の新聞『日本』に連載されました。紀行文からそのあとを辿ってみます。
 「松島の風象潟の雨いつしかとは思いながら病める身の行脚道中覚束なくうたた寝の夢はあらぬ山河の面影うつつにのみ現われて今日としも思い立つ日のなくて過ぎにしを今年明治二六年夏のはじめ何の心にかありけん、
 松島の心に近き袷(あわせ)かな」
 旅立つにあたっては多くの人たちが、餞別の句を贈りました。
 「松島で日本一の涼みせよ    瓢 亭」
  松島の風に吹かれてひとへ物  子 規」
 上野駅を後にした子規は、宇都宮、那須野を経由して白河に立ち寄りました。
 「涼しさやむかしの人の汗のあと」
 須賀川、郡山、二本松・黒塚を経て福島に入り、人力車に乗って飯坂温泉に向かいました。医王寺で古をしのび、葛の松原では古歌に思いを馳せました。
 「世の中の人にはくずの松原と
            いわるる身こそうれしかりけれ」
 宮城に入った子規は、七月二九日塩竈から小舟に乗って松島へ向かいました。松島へ着いた子規は、富山・観月楼から松島の絶景に感動、そのあと観欄亭ではその襖絵の美しさを嘆称し、瑞巌寺を訪れ臥龍梅にも心躍らせ、五大堂を訪れました。
 「五大堂に詣ず。小さき島二つを連ねて橋を渡したるなり。橋はをさ橋とてをさの如く橋板まばらに敷きて足もと危うくうつむけば水を覗ふべし。
  すずしさや島から島へ橋つたひ
 日ようよう暮れなんとす。
  松島や雄島の浦のうらめぐり
めぐれどあかず日ぞ暮れにける」
 三十日は雄島で遊び、そのあと舟に乗り塩竈へ向かいました。船頭は帆を順風に任せて、己は舵を操りながら一つ一つの島を指し示し説明してくれました。
 「十符の菅菰の事など尋ぬるに朧気に聞き知りてはなしなどす。耳新らしき事多かり。舟塩竈に着けばここより徒歩にて名所を探りあるく。路の辺に少し高く松二〜三本老いて下に石碑あり。昔の名所絵図にある野田の玉川なり。伝うらくには真の玉川に非ずして政宗の政略上よりことさらにこしらえし名所なりとぞ。いとをかしき模造品にはありける。
 末の松山も同じ擬名所にて横路なれば入らず。市川村に多賀城址の壺碑を見る。小さき堂宇を建てて風雨を防ぎたれば格子窓より覗くに文字定かならねど流布の石摺によりて大方は兼ねてより知りたり。
  のぞく目に一千年の風すずし
 蒙古の碑は得見ずして岩切停車場に汽車を待つ。
  蓮の花さくやさびしき停車場
 この夜は仙台の旅宿に寝ぬ。」
 仙台に想い出をとどめた子規はそのあと、作並温泉から山形に入りました。館岡、東根、大石田、そして最上川では存分に自然の雄大さを堪能しました。
 「夢枕夢路重ねて最上川
     ゆくへもしらず秋立ちにけり 子規」
 山形、秋田、岩手に想い出を刻んだ子規は、この旅を通して芭蕉を再評価し、一歩進めて「歌よみに与ふる書」を発表し、雑誌「ホトトギス」を刊行して、俳句・短歌の革新を進めますが三五歳で没しました。この俳風は高浜虚子、河東碧梧桐らに、短歌は伊藤左千夫、島木赤彦、土屋文明らに受け継がれますが、この旅は子規にとっては自分の信念を確認する大事な旅でもありました。
 「始めよりはてしらずの記と題す。必ずしも海に入り天に上るの覚悟にも非らず。三十日の旅路つつがなく八郎潟を果てとして帰る目あては終に東都の一草庵をはなれず。人生は固よりはてしらずなる世の中にはてしらずの記を作りて今はそのはてを告ぐ。はてありとて喜ぶべきにもあらず。はてしらずとて悲しむべきにもあらず。無窮時の間に暫らく我一生を限り我一生の間に暫らく此一紀行を限りこうむらすにははてしらずの名を以てす。はてしらずの記ここに尽きたりとも誰れか我旅の果てを知る者あらんや。
  秋風や旅の浮世のはてしらず   子 規]