トップページへ仙台藩最後のお姫さまみちのくの文学風土
みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
史都にとどめた管井真澄の想い出
2005年7月15日


 
  
 三河の国(愛知県)で生まれた菅江真澄(本名臼井秀雄一七五四〜一八二九)は、三十歳のとき、長野へと旅たち、以後、新潟、山形、秋田、青森、岩手、宮城、北海道を巡り、四十八歳のとき秋田に入り、その後二十八年間を秋田で過ごし、七十六歳のとき角館(秋田県角館市)で没しました。その間『いなのなかみち』『あきたのかりね』『おがのあきかぜ』など、自身の見聞や体験、観察などを、日記や地誌、写生帳、随筆にまとめました。
 真澄の著作は内容が豊富でさまざまな専門分野にも及び、また、近世の庶民生活の様子が、わかりやすく絵を添えて幅広く記されており、歴史や文化を知る上で数多くのヒントを私達に与えてくれます。真澄の生涯は一貫して観察者としての姿勢が貫かれ、学び続ける者としての謙虚さを失わず、人生の大半を旅とその記録に費やしました。
 真澄の旅は、一七八三年(天明三)飯田(長野県)で風越山(かざこしやま)の桜を跳めるところから始まります。その時の記録『いなのなかみち』には、飯田より跳めた風越山を見て、
  風越(ふうえつ)の峰のうへにてみるときは
             雲は麓のものにそありける
と詠んでいます。真澄は飯田から信濃を縦断して、日本海へ抜けますが、その間諏訪湖周辺の記録『すわのうみ』や姨捨山での月見の記録『わがこころ』なども残しています。
姨捨山は、長野県北部長野盆地の南西にある山で、正式名称は冠着山で標高二五五メートル、段々に小さく区切った水田の一つ一つに映る月「田毎の月」で著名です。更級に住む男が親代わりの姨(伯母)を養って住んでいましたが、妻は姨を山に捨てさせました。おりからの明月に堪えられず、
  我が心慰めかねつ更級や
      姨捨山に照る月を見て 『古今和歌集』よみ人しらず
と口ずさみ翌朝姨を連れ帰ったという棄老伝説の地です。大和物語、今昔物語にその記載が見えます。
 一七八五年(天明五)のみちのくの旅は、主に盛岡藩、仙台藩の旅が中心で、この三年間に西磐井郡山目村(岩手県一関市)の大肝煎大槻清雄を訪ね逗留、東磐井郡大東町大原の芳賀慶明宅では『はしわのわかば』を記しました。
 七月宮城に入った真澄は、栗原の石の森から登米郡に入り北上川を渡って桃生郡、石巻から小野を経て松島に入りました。松島では雄島から美しい月夜の松島を眺めました。
 「夕より雄島にいかんと、露けきあし原の道をかい分けて、渡月橋と名のりし橋ひとつわたりて、庵二つあるひとつには、そみかくだねんぶちをとなへ、かねをならしてをれり。かしこの板じきに居てむかへば、月は曇がくりて、のぼりたるとおもふに、島松のはさまよりあらはれたるは、えもいはんかたなし。
  見る人はいかにおしまのこよひかな
            たくひもくまもなみのへの月」
 瑞巌寺では、天台宗延福寺から臨済宗円福寺になった経緯を聞き、法身(ほっしん)と時の執権北条時頼の出会い伝説に想いを馳せながら、五大堂にも足を運びました。
 「ひんがしの面は、かたのうらとて、つるのあそびたるは、うたみたらんがことし、又浜路に出て、島々のとまばゆきまで、目をおどろかしたり。」
 離れがたい想いを胸に観瀾亭に立ち寄り、そのあと小舟に乗って塩竈へ向かいました。いろいろな島の姿には感動を深めました。
 塩竃神社を参拝した後、多賀城に入り総社を訪ね市川村には入りました。
「市川村に至りて、壺碑はいづこといへば、菱うるわらばの、みちびきせり。うけひのかは遠からめやはみちのくの、つぼのいしぶみ≠ネどずしかへしくて、かくてつきぬれば、浮島邑のさかひに、かわらふきたるあつまやに、格子建てて鎖ざせり。その内をのぞけば、『去興一千五里 (以下略」。神亀のはじめは、聖武天皇のみくらいにつき給ふのとし也。大野東人は大野朝臣多賀麻呂の子なりけるゆへ、多賀の城なりけるか。又いふ。多賀城ありし処は、今は賀瀬といふところにして大野東人鎮守府将軍たりしとき、ちかつあふみの国、大上郡多賀のみやしろを、うつし祭りしゆへ、その名聞へしとも、天平宝字六年、あはぢの廃帝の四とせにあたりけり。あさかりは、恵美押勝の五男にあたれり、この城の壺の中に建たる石ふみ也、鴻の名のありし処はいづこならん。
 このほとりの小川を玉川といひき。玉川寺といふ寺の聞こへたればなり。南部にながるゝは、いかゞあらん。岩といふところより山際に十符の菅ありと聞きて、尋ねたるに (以下省略)」  真澄はこの後、仙台などを訪れ記録をとどめています。真澄が多賀城を訪れてから二二〇年の歳月が経過をしています。