トップページへ仙台藩最後のお姫さまみちのくの文学風土
みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
東北歌壇を支えた歌人扇畑忠雄展
2005年9月6日


 
  
 扇畑先生の、東北の文学界、短歌会に残された功績は多大であり、生前のご功績を讃えるため、予定していた展示会をとりやめ本展示会に切り替えた。
 旧東北帝国大学には、本多光太郎をはじめとし、すぐれた科学的な業績をのこした学者たちが多い。その一方で、この大学の文学的な校風が、次代を担う人たちの人間形成に果たした業績もまた顕著である。
 阿部次郎の『三太郎の日記』は、近代における青春の書として大きな役割を果たした。松尾芭蕉や夏目漱石研究の第一人者小宮豊隆、華麗に理知の幻想をうたった木下杢太郎(太田正雄)など、若い人たちの豊かな心の育成に貢献した学者は数多い。彼らはまた地域社会のなかにとけ込み、地域の文化の振興にも大きく貢献したのである。
 故扇畑忠雄先生もそのような流れのなかに位置する先生ではないだろうか。先生は明治44年(1911)中国の旅順で生まれた。8歳で父を亡くされ、9歳の時母とともに祖父母のいる広島に移られた。広島第一中学を卒業された後、17歳の時広島高校に進学された。この頃にはすでに小説や短歌を発表されている。指導を受けるようになる中村憲吉には、広島アララギ歌会で初めて会った。20歳の時、京都帝国大学文学部へ進まれた。この年、大阪で開催されたアララギ関西大会で斎藤茂吉、中村憲吉、土屋文明の講演を聴いた。この3人は扇畑先生が生涯にわたり私淑し、指導助言を受けた歌人である。
 扇畑先生が東北と大きな関わりをもたれるようになったのは、昭和17年第二高等学校の教授になられてからである。すでにこの頃には先生は一流の学者、歌人たちとの交流を通して地歩を確立され、アララギ派においては有力なメンバーの一人になられていた。仙台に移られてからの先生は、万葉集に詠われた歌枕の現地踏査を行われ検証された。
 終戦直後の昭和21年(1946)には、東北アララギ会を結成し、会誌『群山』を発刊、昭和23年からは、宮城刑務所で受刑者の更生の一つとして短歌指導を始められ、以後50年以上にわたり続けられた。また宮城県内の小中高、大学の校歌も数多く手掛けられた。北上市にある日本現代詩歌文学館初代館長に就任される傍ら、仙台文学館創設にも尽力された。また、平成14年には歌会始の召人をつとめられた。
 学問の上での最大の功績は、征東将軍として多賀城に赴任した大伴家持が延暦4年(785)多賀城で没したことを、文献などから論証し多くの人びとに認知させたことであろう。謹んで哀悼の意を表するものである。
   会 期  10月6日まで
   場 所  宮城県図書館展示室
      平成17年8月  宮城県図書館長 伊達宗弘