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みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
仙台藩物語2ー寛文事件と英主吉村
2005年1026日


 
  
 3代綱宗は、万治元年(1658)襲封しますが、不行跡を理由に21歳で逼塞を命じられました。在任期間はわずか2年です。綱村が2歳で襲封、一門の伊達兵部宗勝、田村右京宗良が直参大名に取り立てられて、後見政治がスタートしました。
 寛文事件(伊達騒動)はこのとき起こった藩内の権力闘争です。兵部派は失脚し、綱村は17歳で初入国、綱村治世がスタートしました。儒学の振興に意を用い領内には学問の気風がみなぎり、領内岩出山には有備館などの学問所もつくられました。修史事業にも着手し優れた学者も起用しますが、次第に仏教に傾倒し、神社・仏閣などの建設によって藩財政は破綻し、門閥との対立も生じ隠居を余儀なくされました。
 5代吉村は、元禄16年(1703)襲封、藩の領内米の独占購入の確立と幕府の許可を受けた鋳銭によって、藩財政を好転させ財政を立て直しました。鉱物資源の開発、高級和紙の生産、新田開発、水利灌漑、運輸開拓も引き続いて奨励し実績を残しました。
 のちの藩校養賢堂の前身となる学問所を設立、中興の英主といわれました。