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みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
仙台藩物語5ー幕末の動乱と大政奉還
2005年11月15日


 
  
 こうした中で、13代慶邦が天保12年(1841)16歳で襲封、嘉永6年(1853)にはアメリカ使節ペリーが浦賀に入港、幕府に開国通商を強く迫り、国内は開国・攘夷の激しい対立抗争の中に突入していきました。
 一方幕府は、ロシアの侵入に備え、仙台藩に対して東蝦夷地の警備を命じ、仙台藩はこれを受けて安政3年(1856)士卒220名を東蝦夷地に派遣、これによって仙台藩の財政はいっそう逼迫、さらに開国・攘夷を巡っての藩論を統一することができませんでした。
 しかし手をこまねいていた訳ではありません。仙台藩の手になる様式軍艦「開成丸」を竣工させるなど、軍備の近代化にも努めましたが、中央の情勢は予想を上回る速さで進展しました。
 井伊直弼による日米修好通商条約の調印、安政の大獄、桜田門外の変、四国艦隊の下関の砲撃、長州征伐が行なわれ、慶応3年(1867)に、大政奉還、王政復古の大号令が下されました。