トップページへ仙台藩最後のお姫さまみちのくの文学風土
みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
史都に刻んだ道興准后の想い出
2006年11月25日


 
  
 道興准后(どうこうじゅんご)は、左大臣近衛房嗣の子で、京都聖護院門跡などをつとめた室町後期の高僧です。室町幕府と密接な関係をもち、延徳二年(一四九〇)には足利義視(よしみ)の病気平癒を祈願し、その翌年には参陣して十代将軍将軍義稙を加持しています。さらに明応九年(一五〇〇)には参内して後土御門天皇の玉体を加持、熊野三山ならびに新熊野検校になるなど、隠然たる力を持っていました。
 文明十八年(一四八六)六月から約一年にわたって東国を巡歴し、その後は西国・四国巡歴の途に上るなど全国の名所旧跡を巡っています。東国巡歴の旅行記およびその詩文集は『廻国雑記』一巻として塙保己一編纂の『群書類従』に収められました。
『廻国雑記』は、北陸路から関東へ入って武蔵国など各地をめぐり、駿河甲斐にも足をのばし、奥州松島までの旅を紀行文にまとめたもので、すぐれた和歌や漢詩などを多く納められています。特に、各地の地名をよみこんだ和歌は注目され、もろおか(利府町)、赤沼、西行がへり(長老坂)などの地名が見られます。
 文明十八年六月上旬の頃、東国への旅のためしばらく留守にするため、前将軍足利義政、九代将軍義尚にお暇ごいを申しお上げ、翌日義政へ二首を献じました。
  旅衣たつよりしぼる武蔵野の
           露や涙をはじめなるらむ
 それに対し義政から返歌が贈られました。
  思ひたつ富士の煙の末までも
           へだてぬ心たぐへてぞやる
 将軍義尚からも和歌が贈られました。
  思ひやれはじめてかはす言のはの
            富士の煙にたぐふ物とは
 道興は使者を待たせとりあえず返歌を贈りました。
     富士の嶺の雪もおよばず仰ぎみる
         君がことばの花にたぐへて
 送別の宴の席で、八十五歳になる父は万感の思いを込めた和歌を道興に贈りました。
  身は老いぬまた相見むもかたければ
          今日や限りの別れなるらむ
道興は柴の庵や、別れる心細さを和歌に託しました。
  住みなれしこの山水の哀れわが
誘はれ出づる行方しらずも
 大原で皆に別れを告げ、足の向くまま各地を廻った道興は、白河の関を越え各地で和歌をとどめました。
  春は唯花にもらせよ白川の
         せきとめずとも過ぎむものかは
    ちりつもる花にせかれて浅か山
          浅くはみえぬ山のゐの水
  梓弓(あずさゆみ)矢つぎの里の桜がり
         花にひかれておくる春かな
  かくしつつ故郷人にいつかさて
        阿武隈川の逢瀬(おうせ)にはせむ
  徒(いたず)らに我も齢はたけくまの
         まつことなしに身はふりにけり
 名取では藤原実方中将に思いを馳せました。
 桜がり雨のふるごと思ひいでて
         今日しもぬらすたび衣かな
 宮城野では時雨に遭い、しばらく雨をしのぎました。
  木の下に雨宿りせむ宮城野や
           みかさと申す人しなければ
 つつじが岡では、ワラビを見ました。
  名にしおふ躑躅が岡の下蕨
        ともに折りしる春の暮れかな
 末の松山を遥かにながめながら、よくもこのような遠いところへきたものだと感慨を覚えました。いつの間にか春爛漫の季節を迎えていました。
  春ははや末の松山ほどもなく
        こゆるぞ旅の日なみなりける
  人なみに思ひ立ちにしかひあれや
        わがあらましの末の松山
 奥の細道、松本、もろをか、あかぬま、西行がへりなどいふところを通り過ぎ、松島へ到着しました。松島の美しさは言葉に尽くせません。風情があり、かねて聞き及んでいたとおりの素晴らしい眺めです。
  この浦のみるめにあかで松島や
            惜まぬ人もなき名残かな
 籬島(まがきじま)を見渡せは、藤、つつじなどが咲き競っており、さらに美しい風情を添えていました。
  まがきじまたがゆひそめし岩つつじ
            巌にかかる磯の藤波
 これから塩竈の浦へわたるため舟に乗りました。
    松島や松のうはかぜ吹きくれて
          今日の舟路はちかの塩竈
 平泉ではありし日の藤原氏全盛と滅亡に、諸行無常の理(ことわり)に思いを馳せ家路を急ぎました。
  みちのくの衣の関をきてみれば
       霞もいくへたちかさねけむ