トップページへ仙台藩最後のお姫さまみちのくの文学風土
みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
史都に刻んだ与謝野鉄幹と鮎貝槐園の想い出
2006年11月30日


 
  
 明治二六年の夏、鮎貝槐園(あゆかいかいえん)は与謝野鉄幹と共に、仙台、塩竃、松島の旅をし、想い出の記録を『松風島月』と題し日本新聞に発表しました。槐園は気仙沼出身の落合直文の実弟です。『松風島月』は、七月二一日から九月四日まで十九回にわたって連載されました。各所に文学的表現が散りばめられ、精神的にも高揚しているようすがうかがえます。
  あつさをば避けむ車のなかなかに
      都の夏を載せて行くらむ   鉄幹
 七月一五日上野を汽車に乗って旅立った二人は、古河、塩谷の松原、那須、白河を経て仙台に到着しました。仙台では広瀬川沿いの小高い場所にある名所南山閣を宿としました。南山閣からは仙台市内ばかりではなく、閖上、松島、石巻、金華山も身近に見えます。数日間ここに滞在し仙台の名所旧跡を見て回り、槐園と鉄幹は心ゆくまで歌のやりとりを楽しみました。(中略)二一日、二人は飄然と南山閣を後にしました。一蓑一笠はまるで西行にでもなったような気持ちで、箱馬車で塩竃に向かいました。十符の里の茶店に寄ると襖のやぶれをつくろって一枚の短冊が張ってありました。大変すすけていましたが、詠んでみると、
  みちのくの十符のすがこも三符にねて
   七符はゆつる秋の夜の月
という歌でした。大変興を感じたので買い求めました。詠み人の名が書かれていないのが残念です。この里の続きに比丘尼阪、今市というところがありました。比丘尼阪で売っている甘酒は名物で、 槐園は二腕を傾けました。今市ではおこしという菓子を売っていました。豆と栗とはた米とを黒砂糖で固めたものです。これも名物だというので鉄幹一人で一袋を食べてしまいました。
 宮城郡燕沢村には蒙古碑というものがありました。たけ六尺、幅三尺の石に文字が刻まれていますが難しくて読めません。弘安の役のとき、筑紫で死んだえみしを弔って、胡元の僧某が立てたものだそうです。古字をもちいているのでなかなか読めません。岩切村では途絶橋という名の場所がありました。古歌に、
  あやうしと見ゆるとだえの丸木橋
      まつほどかかるもの思ふらん
と詠まれたのがこの場所です。
 宮城郡市川村では天平宝治年間に建てたと伝えられる壺碑を見ました。碑の高さは六尺、その廻りは九尺六寸、仮屋を造って覆っています。鎮守府将軍藤原恵美朝臣の撰で、筆勢高古、字体寛雅です。これは見雲真人の書と伝えられています。
 槐園と鉄幹の二人が八幡村に着いたのは午後四時ですが、ここで夕立に遭ってしまいました。とある寺で雨宿りをしました。寺の後には小高い岡があり、松がたくさん生い茂っています。しばらくして雨が晴れたので、槐園はその岡に登りました。大変見晴らしが良いから来てみろというので、鉄幹も登ってみました。松の間から見渡せば、海から一里半、波濤が天に接して、目の前に落ちてきます。本当に良い眺めなので、二人でしばらく見とれていました。しばし休息し、この寺を出発し、次の里に着くと、鋤を担いだ農夫に出会いました。「末の松山は何処ですか」と聞くと、すでにお前達は通り過ぎてきたというのです。「それは何という村ですか」と尋ねると、八幡村というところに宝国寺という寺があり、その後の岡は、松が大変多く、そこが末の松山の跡であると伝えられているという答えが返ってきました。先ほど二人が雨宿りした場所です。そんなことも知らないで、ただ漫然と見ていたのかと思うと口惜しい限りです。戻ろうと槐園はいいますが、もう十町ばかりも通り過ぎて来ましたし、時間もないのに再び戻るのはどうしたものかと思案しながら、結局は戻らず歌をとどめました。
    立つ虹の末の松山浪ならで
       木ずゑをあらふ夕立の雨     槐園
  浪ならで末の松山こす雲に
       入日も白しゆふ立の雨 鉄幹
 野田の玉川は塩竈の南にあります。流れは狭く水は大変澄んでいます。ここで日が暮れました。槐園は、
  萩にくだくる夕月の影
と挑戦したので、鉄幹はとりあえず、
  千鳥なく野田の玉川浪こえて
と上の句を返し、さらに、
  月もそこゆく野田の玉川
と詠じると、しばらくして槐園は、
  夕されば清き流れの涼しさに
と上の句を付けました。夜に入って塩竈に到着、勝画楼を宿としました。家々の燈火が水に映じて点滅しています。糸竹(楽器の総称)の音が、波の音とともに高く聞こえます。二人は勝画楼を拠点に塩竈、松島の名所旧跡を見て回り、歌を交わしながら楽しい旅の想い出を『松島島月』に刻みました。