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みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
『蝦夷紀行』に見る壺の碑
2006年11月30日


 
  
 立初(そむ)る春の日和に舞鶴の 
      つばさの風も長閑にぞふく 正敦 
 仙台六代藩主宗村の八男で堅田藩主(のち佐野藩主)の正敦が、幕府の老中につぐ重職である若年寄に在簿した四十二年間は、仙台藩では正敦の兄である七代重村、八代斉村、九代周宗、十代斉宗、十一代斉義、十二代斉邦の時代と重なっています。仙台藩の行く末を暗示するように斉村は二十二歳で、周宗は十七歳で、斉宗は二十四歳で、斉義は三十歳で、斉邦は二十五歳で早世しました。当時仙台藩は、天明の飢饉の後遺症に悩み、さらに天保の飢饉で大きな打撃を受けていました。そのような中で寛政八年(一七九六)斉村夫人が周宗を生んだあと死去、時をおかず前藩主重村、藩主斉村が急逝しました。非常時に当たり重村夫人観心院は、堅田藩主掘田正敦に藩政補佐を依頼し、幼君周宗の補佐体制を固めました。周宗在位の文化四年(一八〇七)四月、ロシアは択捉島に上陸し掠奪行為をし、幕府は奥羽諸藩に蝦夷地警護を命じ、翌年、藩政をあずかっていた正敦は藩兵一千七百名を率いて蝦夷地へ赴くなど、仙台藩政に深く関与しました。 
 『蝦夷紀行』は、蝦夷地に赴いた時の正敦の旅日記です。 
 文化四年(一八〇七)六月二十一日江戸を発った正敦は、途中日光に参拝し、那須野を経て白河に達しました。白河は、勿来の関、鼠ヶ関と共に奥羽三関といわれた場所で、松平定信の居城のある奥州の要衝です。『万葉集』に詠われた安積山、会津磐梯山、安達太良などを眺望しながら仙台領に入りました。左方にはひときわ高い蔵王の山々を眺望することができます。仙台、盛岡、青森を経て函館に入り、東蝦夷地の有珠や西蝦夷の熊石等を巡検し帰路につきました。この旅を通して正敦は目に触れ耳に聞くもの、人情風俗の異同、山川道路の嶮岨、物産や国柄などについて、鋭い考察を行っています。所々にはその場に相応しい和歌が添えられ趣深い紀行文となっています。 
 国見峠では伊達の大木戸を眺めながら源頼朝の奥州征伐に思いを馳せました。仙台は正敦の故郷、若かりし頃の想い出が走馬燈のように脳裏をかすめました。北へ向かう途中の一関は正敦の子息敬顕が藩主に迎えられており、夜は親子水入らずで語り明かしました。 
  まれにあふほしもこよひは天の川 
           わたりかねたるうき瀬ならまし 
 翌日は中尊寺を参拝、往事の藤原氏に思いを馳せました。田稲束(たばしね)山は藤原氏全盛時代、桜爛漫と咲き誇り、北上川は桜川ともいわれていました。 
  いにしへの名のみ流れて桜川 
     たゞ白雲ぞおもかげにたつ  
 一戸を過ぎると波打峠という所の辿りつきました。大きな白い岩を見、松林を越えました。ここが有名な末の松山です。慣れ親しんだ多賀城の末の松山に思いを重ね合わせ、さらに北へと進みました。三本木平という原にさしかかりますと、尾花、桔梗、藤袴などが咲き乱れ、まるで別世界です。 
  百草を分けつゝゆけどはてしなき 
        野原の露をうづらとやゆく 
 七戸を過ぎ、「つぼ河」を渡りました。村の名は「いしぶみ」といいます。千曳明神を祀っている神社には大きな石があり、そこには「日本中央」という四字が刻まれていそうですが、文字は薄くなっているとのことでした。行ってみようと思いましたが、今は土に埋もれて見えないということなので、断念しました。仙台では千賀の塩竈へ行く道の多賀城の碑をいしぶみといっていますが、ここには川の名前、村の名前にもそれらをうかがわせるものが多く、これが本当の碑かと何となく思わずにはいられませんが、いまはそれも土に埋もれてしまっているので心を残し、北へ進みました。蝦夷地では聞くもの見るものみな珍しく蝦夷の人々の生活や、北の守りの様子なども詳細に書きとどめました。 
 帰路は心にも少しは余裕が出てきました。松島では頼賢の碑を見て往事に思いを馳せ、早朝五大堂も参拝しました。藩主から差し向けられた御座舟孔雀丸に乗って松島の美しさを堪能しました。 
  遠ざかるなごりをしまのあま小舟 
       波のつな手に心ひかれて 
 籬島ではしばし舟を泊め、「前に浮きたる浮島はどこですか」と訪ねると今は干潟となって、里の名にのみとどめていますという返事に、時の移ろいの無情さを感じました。 
 塩竈神社を参詣した後、仙台では瑞鳳寺、大年寺など祖霊の廟を参拝しました。他家に養子に入り、今は幕府の要職にある自分の半生にしみじみとした感慨を覚えながら、江戸への帰路を急いだのです。 
  河しまの水のながれの同じせに 
         あひあふことも命なりけり