トップページへ仙台藩最後のお姫さまみちのくの文学風土
みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
能因法師の旅
2002年4月17日


 歌枕の国みちのくの成立には、漂白の歌人や旅人らも大きな役割を果たしました。能因(988〜没年未詳)がみちのくに残した和歌を辿ってみたいと思います。小倉百人一首の「あらし吹くみ室の山の紅葉ばは龍田の川の錦なりけり(後拾遺和歌集)」で知られる能因は、二度みちのくへやって来たといわれています。能因は、歌語や歌名所を解説した「能因歌枕」を著しており、その中で、陸奥国を山城(京都府南部)、大和(奈良県)に次ぐ第三の歌枕の国と位置づけています。能因は、藤原実方より半世紀後の当時屈指の漂白の歌人として知られています。
 古代の旅人は奥羽に入るには、三つの何れかの関を超さねばなりませんでした。白河関(福島県白河市)、勿来関(福島県いわき市)、念珠ケ関・鼠ケ関(山形県温海町)ですが、実方が没して30年後(1025頃)、能因は白河関を越えました。

 ・都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関 
                       後拾遺和歌集
と詠んでいますが、どんな気持ちで能因は白河関を越えたことでしょうか。橘成季撰の鎌倉時代の古今著聞集は次のようなエピソードを伝えています。これによると能因が都に籠居して人に会わずひそかに色を黒くしあたかも陸奥国の旅から帰ったかの如く偽って披露した和歌と伝えています。この伝説は裏を返せば、いかに白河関が都の人たちの憧憬する所であったかということです。また、袋草子によると竹田大夫国行という人が陸奥に下り、白河関を越えるおり、服装を改めたので、人びとはその理由を尋ねたところ「能因法師が、秋風ぞふく白河の関と詠まれたところをどうして平服で過ぎることができようか」と答えたと伝えています。このように歌枕の秀歌に対しては、ほとんど信仰にも近い憧憬があったのかもしれません。能因が訪れる数十年前、平兼盛が白河関を越えました。

 ・たよりあらばいかで都へ告げやらむけふ白河の関は越えぬと 
                       拾遺和歌集
 兼盛の和歌は家郷を空間的に遠く離れた遥かな思いを詠んだものですが、能因は漂白の思いを空間的のみならず時間的経過において捉えて、旅愁をさらに細やかに詠んだものです。白河は都とみちのくの距離を埋める言葉であり歌枕はこうした魔性をも含んでいました。趣深い数多くの秀句も詠まれています。白河関を越えた能因は安積山、安達太良、会津嶺(磐梯山)を遠くにみながら阿武隈川を越えました。宮城に入ってまもなく武隈の松(岩沼市)にさしかかります。

 ・武隅の松はこのたびあともなし千歳をへてやわれは来つらん 
                       後拾遺和歌集
 武隈の松のある岩沼市は、古くから竹駒神社の所在地として知られ、京都府の伏見稲荷、愛知県の豊川稲荷と並び称された竹駒稲荷のある場所です。縁起によれば824年(承和9)に陸奥守小野篁が、東北開拓の神としてこの地に社殿を建立、武隈明神と称しました。能因法師が陸奥に行脚してこの地にいたり、竹馬に乗った童子(明神の化身)に会い歌道の奥義を悟ったといわれ、竹駒神社と称されるようになったといわれています。 

 ・ゆふされば潮風越してみちのくの野田の玉河千鳥なくなり
                      新古今和歌集  
野田の玉川(多賀城市、塩竃市)は六玉川の一つとして古来名高く、また千鳥の名所として知られています。出羽国に足をのばした能因は、

 ・世の中はかくてもへけり象潟の海士の苫屋を我が宿にして
                      拾遺和歌集
と詠んでおり、能因が三年間隠棲したと伝えられる能因島を、芭蕉は到着後すぐに訪れています。象潟は松島と並んでその景勝を謳われ、奥の細道に次のように記されています。「江の縦横一里ばかり、俤(おもかげ)松島にかよひて、また異なり。松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり」。能因や芭蕉の訪れた名勝象潟も、1804年(文化1)一夜にして隆起し、今は水田の中に島々が点在して往時の面影をとどめているに過ぎません。