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みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
伊達敦子さまへの追悼
2007年6月20日


 
  
弔   辞
(平成19年6月16日北海道伊達市にお住まいの元男爵伊達廉夫夫人敦子様が逝去された。敦子様は主従一体となって亘理から開拓に入った伊達邦成公の孫で仙台藩最後のお姫さま貞操院保子の曾孫でもある。葬儀が19日伊達家菩提寺大雄寺で行われた。これはその時の私の弔辞である。)

  あさみどり澄みわたりたる大空の
        広きをおのが心ともなが 明治天皇御製
 近代日本の黎明の時代を牽引した明治天皇のお歌ですが、凪いだ湖の面のように広やかな心得をもった自分でありたいというお心を詠まれた歌であります。敦子様の訃報に接したとき、私の脳裏に去来したのはこの歌でした。いつも穏やかな湖のように澄んだ広いお心を持たれながら、毅然とした姿勢で生涯を送られた伯母上様でありました。
   敦子様にお会いしたのは40年前の大学2年生の頃でした。美幌町での農業実習を終えた帰路、お家を訪問させていただきました。当時、伯父上様もご健在で、質素をむねとされているような生活をされていました。しばしの間有珠開拓のお話や、戦時中のご苦労についてもお話をお聞きしました。敦子様は早く父君を亡くされ、私にははかりしれないご苦労もされました。戦時中はお子様たちのため牛を飼い、農耕にも従事されたとうかがいました。その頃のことでしょうか。国から借用した多額の開拓資金を返済し終わったときほっとされたというお話もお聞きしました。昭和40年代に、数万点の貴重な文化財と広大なお屋敷を市に寄贈されていますが、人情反復、栄枯盛衰を十分承知されているがゆえに、貴重な文化遺産を後世に伝えることこそが、開拓の苦楽を伴にされた皆様への報恩の証とお考えでのご決断であったろうと拝察いたしております。
 お二人の開拓にまつわるお話しをお聞きしながら、私は大学卒論のテーマは「仙台藩士の北海道開拓史」にしようと考えました。それ以降も何度かお宅におうかがいをしましたが、辞去した後はいつも清々しい気持ちで、生きる勇気をいただいたものです。
 平成元年10月、敦子様が長女の伸子様とご一緒に登米の私の家に何日か泊まられました。旅行の目的は、祖父に当たられる邦成公の生家岩出山の伊達家と邦成公の母の生家登米の私の家を訪れること、そして北海道に向けて開拓団の皆さんが旅立った寒風沢の島を見ること、またゆかりの人たちへの墓参でした。敦子様は伊達家の家風でもある歌を日常からたしなんでおられました。残された敦子様のお歌からその時の旅の一端をご照会したいと思います。
 御出発は平成元年10月11日、晴天に恵まれるなかでの宮城への旅立ちの喜びを歌に託しました。
  宮城野の秋をたずねて旅立ちの
          仕度もうれし青空すみて
 翌日は仙台までお迎えに伺った私の車に乗られ、保子様や邦成公が北海道へ旅立たれた松島湾へ向かいました。松島の景勝地大高森から松島湾を眺望しました。あいにく小雨の後で松島湾は薄い霧に包まれていましたが、それがいっそう弥勒菩薩のおわすという兜率天の浄土か、あるいは神仙がすむという東海の蓬莱の島々かと思わせる松島の風情をより一層趣深いものにしていました。眼下に幻想的な姿を見せて広がる寒風沢の島には感無量なものを感じられたのでしょう。開拓に向かった先人の往事に思いを馳せられたのでしょう。
  寒風沢の港は小雨にけぶりいて
          昔をしのび思い乱だるる
 しばしのひとときを過ごされた後、邦成公の母の生家でもある登米に向かわれました。小高い丘のような場所にある登米の屋敷に入ると玄関先までは大きな石が並べられ右の斜面にはたくさんの萩が植えられていましたが花の盛はすんでいました。松に囲まれた屋敷に到着しました。
  石づみの道につわぶき茂りおり
          はぎの花散る松の館へ
 登米の家には2泊されますが山の中での一軒家で、戦国時代から江戸時代の両家の歴史に思いを馳せ共有する先祖をもつ者だけに通じる楽しい話題にしばしの時を刻まれました。部屋には香のかおりが漂っていました。
  松風にかおりゆらぎておくつきは
           昔を語るよすがをつなぐ
 翌朝は登米の御廟や城下の面影を伝える町並、大河北上川の雄大な流れを楽しまれ、悠久の時の流れに思いを馳せました。
  水多き北上川はゆるく流れ
           山かげうつして昔も今も
 「登米に来られた記念に庭にヤシオツツジを植えてください」といわれました。もう一度来てみることはないであろうヤシオツツジに「一隅を得て活着せよ」との祈りを込めて植樹しました。
  木立の中やしおつつじをうえきたる
           もはやみることなきを思いつ
 登米での最後の夜は、手作りの玉子酒をいただき会話を楽しみながら、ほろ酔いかげんで松の木の葉ごしに見える満月を楽しみました。
  登米の夜はあつき玉子酒に酔いしれて
           宮城の里は満月の中
 翌日は一門涌谷伊達家の廟所を参拝しました。今回の旅の目的のひとつは伯母亀久子の墓参でした。亀久子は涌谷伊達家に嫁ぎましたが子供に恵まれず、夫と他の女性との間に出来た子供を自分の子として大切に育て大成させました。しかし幸薄く望郷の思いを胸に異境の地で果てた亀久子に、女性でなければ理解できない特別の思いも脳裏に去来したのでしょう。
  御苦労の多きとききし伯母君の
          苔むす墓に涙ながるる
 この旅でお作りになった36首の歌の中から君代様がお選びになった八首の歌を紹介させていただきましたが、このあと敦子様は邦成公の生家岩出山に向かわれ、和子様をはじめ岩出山伊達家の皆様の温かい歓迎を受けられ、邦成公のご両親の墓参を果たされました。同行した私は敦子様の、毅然とした立ち居振る舞い、祖霊の廟に参拝されたときの凛としたお姿、そして温かさに改めて接し、正直これがお姫様というものだと感じたものであります。
 後日、君代様からお聞きしましたが俊夫様が開拓記念館にお勤めになられていたおり、貴重な数多くの資料が傷んでいく状況に心痛めていたご子息に対し、励ましの歌を贈られました。
  凍てつける冬も去りなば草萌えて
            花咲く春を君がうえにも
 慈愛あふれる心強い歌に、俊夫様はどんなにか励まされたことでしょうか。  俊夫様は平成九年九月ご逝去されました。愛息に先立たれた敦子様のお悲しみは計り知れないものがあったと存じます。私もご葬儀にうかがいましたが、悲しい表情は決してみせず気丈に弔問客と接しておられたお姿は、いまも瞼に焼き付いています。君代様がご葬儀のことについて敦子様にご相談をされましたが、「これからは貴女がやっていくのですから、貴女の考えるとおりにおやりなさい。私には何も気兼ねをする必要はないのですよ」と諭されていました。君代様にとっては苦しいスタートであったと思いますが、一日もはやく心の切り替えをはかり前へ向かって歩みなさいという、君代様への無言の励ましのメッセージであったろうといまにして思いをいたしております。ご不幸は続き数ヶ月後にご次男も失われました。
 敦子様はまもなく長い療養生活に入られました。しかし敦子様はご自分の運命を静かに受け入れ、決して悲観することなく、未来を信じ、時には歌を作られ日々の営みを大切になさって静かに余生を豊かに過ごされました。これは何にもまして残されたご遺族に対する敦子様の温かい最大の贈り物ではないでしょうか。明治・大正・昭和・平成の時代を生き、社会的価値観が大きく変化する中でのご苦労は、筆舌に尽くし難く、戦後生まれの私には、はるかに想像を越えるものがあったことと思います。常に前を見据えて、多くを語らず静かな日々を重ねられましたが、それは君代様をはじめご家族、多くの皆様の大きな支えがあったからこそ、穏やかな日常を静かに過ごされたものと承知をしております。
 敦子様は「必ずや良い風が吹いてくるから」との言葉をよく口にされていたと君代様からうかがっております。この言葉は周囲の人たちにはどんなにか勇気と希望を与えてくれたことでしょうか。
 困難な状況であればあるほど、その言葉は万感胸に迫るものがあります。  敦子様の生き方は、その後ろ姿を通してお子様やお孫様へと大切に語り引き継がれていくことでしょう。いつも温かくやさしい風を多くのみなさまに送り続けられた敦子様に、心から敬意を表しますとともに感謝を申し上げます。
 お別れすることは悲しいことです。寂しい気持ちで一杯です。敦子様、敦子様がこよなく愛したここ珠有る里の山懐に抱かれ、どうぞ安らかにおやすみください。
 万感の思いを込めてお別れを申し上げます。
              平成19年6月19日
                       伊  達  宗  弘