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みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
「私の心の原風景ーパート3 」
2007年7月25日


 

3 私の歴史や文化に対する考え方

 ここで私が日頃から考えている、歴史や文化に対する考え方についてお話をしてみたいと思います。
 戦後間もない1950年(昭和25)3月、朝日文化事業団の手によって平泉藤原三代の遺体の学術調査が実施されました。当時は戦後間もない頃で、日本の独立を控え、全面講和か単独講和かという議論が国論を二分した、まさに世情騒然としていた時代でした。
 この学術調査は、二つの点でたいへん注目をされていました。一つは、三代の遺体のミイラ化は自然乾燥によるものなのか、あるいは人工的手法が施されているのかということです。もう一つは、いったい平泉藤原氏は日本人なのかアイヌ人なのかという人類学的な問題でした。藤原氏が全盛を極めていた当時、みちのくに住んでいた人々は、蝦夷あるいは俘囚といわれ蔑まれていました。初代清衡自身が、自らを俘囚の頭といって憚らなかったといわれます。
 調査の結果、一点目については、人工的手法が加えられた形跡はなく、自然乾燥によるものだろうと結論されました。二点目については、身長・体型・血液型などの身体的特徴のあらゆる点から、藤原三代についてははまぎれもない日本人であることがわかりました。
 三代の遺体を納めた金棺は金色堂須弥壇から運び出され、約二百五十メートル離れた中尊寺本堂に運び込まれました。遷座法要が行われたのち、翌日から本格的な調査が始まりました。棺は、清衡、基衡、秀衡の順で開けられていったのですが、三代秀衡の棺の蓋が開けられ、その遺体に対面した作家の大佛次郎は、その時の感動を次のように記しています。
 「私は、義経の保護者だった人の顔を見守っていた。想像を駆使して、在りし日の姿を見ようと努めていたのである。高い鼻筋は幸いに残っている。額も広く秀でていて、秀衡法師と頼朝が書状に記した入道頭を、はっきりと見せている。下ぶくれの大きなマスクである。北方の王者にふさわしい威厳のある顔立ちと称してはばからない。牛若丸から元服したばかりの義経に、ほほえみもし、やさしく話しかけもした人の顔が、これであった。」
 調査では、おびただしい副葬品も出てきました。刀装具、鹿角製品、水晶、琥珀念珠、金塊等々。その中には豆粒ほどの小さい金の鈴がありました。それを棺の中から拾い上げ静かに振って鈴音を聞いたときの感動を、調査に立ち会った中尊寺元執事長佐々木実高師は、のちにこう記しました。
 「黄金というには余りに可憐な金の小鈴、思わず呼吸をつめた私は、目を閉じ心意を一点に凝らして、静かに静かに振ってみた。小さく、貴く、得も言われぬ神秘の妙音。八百年後の最初の音を聴き得た身の果報。それはまさしく大いなるものの愛情による天来の福音であった。連日続くあの騒擾に、恐らくすでに爆発寸前の感情にあったろう私は、文化を護る道は、ただ〃愛情″の二字に尽きることを、この瞬間に強く悟り得たのであった。」
 歴史や文化を正しく継承しこれを次代にしっかりと引き継いで行くのは、何にもまして歴史や文化に対する尊敬と、温かい気持ちがあって初めて可能ではないでしょうか。日本人は、その時代時代さまざまな困難を克服しながら、香り高い文化を護り伝えてきたのではないでしょうか。  京都の冷泉家もその一つです。冷泉家からは岩出山の伊達家に2度輿入れしていることから、今でも親しくお付き合いをされていますが、そんな縁で何年か前、冷泉家の夫人のお話を聞くことができました。それによりますと平安末期世の中はたいへん混乱し貴重な日本の文化が失われるそんな危機的時代がありました。国家を支えた荘園制度が崩れ、保元・平治の乱を通して平清盛が六波羅政権を樹立、屋島・壇ノ浦の戦いで源頼朝が平家を滅ぼす、そんな時代のことです。当時の藤原俊成その子定家は、それを憂いてそれぞれの家々が持っていた大切な歌集や物語を自ら、場合によっては書生のような人たちを使ってそれを書写したそうです。冷泉家は和歌の家であります。俊成や定家の書き写したものは冷泉家にとってはその家の存立の根拠となるものです。それらは大切に保管されその写しがさらにその写しが教科書代わりに使われたのです。江戸時代には経済的に行き詰まったこともあったようですが、そういうとき天皇がその原本を借りて宮廷に絵師、歌人等にこれを書写させ大名家などに売って経済支援をしたということです。これはなにも冷泉家に限らずその恩恵を受けたのでしょうが、幸い冷泉家は戦後の激変の時代を乗り越えて今日に大切な文化遺産を伝えています。これには幸か不幸か、哀しい歴史もあったとのことです。  冷泉家には何棟かの蔵がありますが俊成・定家らの大切な原本ともいえるものは一つの蔵に納められており、この蔵には冷泉家の神棚がおかれ、当主と家督となる人しか入れないことになっていたそうです。冷泉家には家督となられる方がいらっしゃいましたが、太平洋戦争で戦死をされてしまいました。悲しみは一切を封印してしまったのです。その蔵は明けられることなく20数年の歳月を経過したのです。この間はまさに日本においては価値観が大きく変わり、農地改革、財閥解体、華族制度が廃止され、財産税がかけられ多くの名門・旧家が没落した時代でもありました。その間冷泉家の蔵は、時の流れから置き去りにされたようにみなの記憶からは忘れ去られたのでしょう。そして悲しみは時の流れで少しは和らいだのだろうと思います。ある時その封印が解かれたのです。それ以降のことは皆様ご存じのとおりですが、そんなお話を興味深く伺ったことが御座います。歴史や文化はそれぞれの時代時代、創意工夫や、危機意識のなかで、今日まで守り伝えてこられたのではないでしょうか。
 そんな気持ちでみちのくの歴史と文化を振り返ったとき何と素晴らしい歴史や文化が花開いていたことでしょう。のちの講座でお話をするようになりますが、千年前の歌人能因法師、百人一首では、
  あらし吹くみ室の山の紅葉ばは
      龍田の川の錦なりけり 『後拾遺和歌集』
を残した歌人、あるいは歴史上大変著名な、
  都をば霞とともに立ちしかど       秋風ぞ吹く白河の関      『後拾遺和歌集』
で知られる能因は2度みちのくを訪れ、晩年和歌の手引き書である『歌学書』を残していますが、そのなかで能因はみちのくを京都、奈良に次ぐ第3の歌枕の国と位置づけています。とりわけ国府多賀城を有し景勝地を有する私たちの宮城は歌枕の国みちのくの中心として知られていますが、宮城野はその中心の中心でもあり数多くの秀歌も詠まれてきました。
 『源氏物語』桐壷では、
  宮城野の露吹き結ぶ風の音に
          小萩がもとを思ひこそやれ
と若宮を小萩にたとえてその身を案じた歌が残されています。その本歌となったのが『古今和歌集』にある、
  宮城野のもとあらの小萩つゆをおもみ
            風をまつごと君をこそまて
であります。さらに勅撰和歌集等には、宮城野と萩と鹿を素材とした数多くの和歌が残されており、そういうことから県花は宮城萩、県獣は鹿となっています。
  宮城野に妻呼ぶ鹿ぞさけぶなる
     もとあらの萩に露や寒けき  『後拾遺和歌集』
  小萩原まだ咲かぬ宮城野の
   鹿やこよひの月に鳴くらむ 『千載和歌集』
  宮城野の萩やおじかの妻ならむ
       花さきしより声の色なる 『千載和歌集』
  宮城野の小萩が原をゆく程は       鹿のねをさえわけて聞く哉   『千載和歌集』
などの和歌とどめています。九百年前の歌人源俊頼は、数々の和歌に詠われたみちのくのシンボルでもある宮城野の美しさを通して、その奥ゆかしさを絶唱し、
  さまざまに心ぞとまる宮木野の
    花のいろいろ虫のこゑごゑ   『千載和歌集』
   という和歌を残しています。何と美しく、心豊かになる和歌でしょうか。  司馬遼太郎は、津軽を「言葉の幸う国」と表現しましたが、青森だけでなく東北は、もともと言語表現の豊かな国でした。加えて山や川を敬い、生きとし生けるものに限りない慈しみを持っていました。山に対するとき山もまた人に対し、岩に語りかけるとき岩もまた人に語りかけると信じていました。人は大自然の一員として生きとし生けるものを大切に扱うすべを知っていました。美しい山河とそこに優しく生きる人びとの住むみちのくは、遠い都の人びとに憧憬を抱かせていったのです。
  都をば霞とともに立ちしかど
     秋風ぞ吹く白河の関     『後拾遺和歌集』
で知られる能因法師(九九八〜没年未詳)は二度みちのくを訪れたといわれ、のちに歌学書(和歌の手引書)を著していますが、その中で陸奥国(青森県、岩手県、宮城県、福島県)を山城(京都府の南部)、大和(奈良県)に次ぐ第三の歌枕の国と位置づけています。これによると歌枕の地は、山城八六、大和四三、陸奥四二、摂津(大阪府と兵庫県の一部)三五、近江(滋賀県)二六、出羽(秋田県、山形県)十九(以下略)となっていますが、遠いみちのくが上位を占めています。一千年以上前すでに東北は、文学的には都の風土の中に組み込まれていたのです。そのみちのくを訪ねて、能因法師、西行法師(一一一八〜九〇)、宗久(生没年未詳、一三五〇頃)、松尾芭蕉(一六四四〜九四)らが訪れて、みちのくの美しさを愛でた和歌や俳句、紀行文を残しています。
 このように多くの人びとの憧憬の土地であったみちのくは、特に明治以降、不毛の地、後進地域のようなイメージで語られるようになり、またそこに住む人たちも、潜在的にそのような気持ちを持つようになってしまいました。敗戦後の日本もまさにそのような状況におかれていました。香り高い日本固有の歴史や文化が無造作に否定され、国民の知識水準も大変低いとされ、自信と誇りを喪失していた時代です。
 このような中で宮城県に於いては、昭和26年県史発刊の事業がスタートしています。当時佐々木勝治知事のもと県史刊行会が発足したのであります。その根底には、戦後の混乱期一番大切なことは、ふるさとの歴史・文化を正しく継承し、寄ってたつ県民の精神的な基盤をしっかりと伝えようとした強固な意志がありました。当時はコピーも何もない次代です。たくさんの人たちが旧家や神社仏閣、果ては東大資料室、岩手県図書館、水沢町図書館などを手分けしながら、およそ1300冊の書写本を作っています。そこからスタートしたのです。約33年をかけ35巻の県史を刊行したのです。この期間はまさにに戦後日本の再生から高度経済成長を成し遂げた次代でもありました。そして県史が完成する頃には、日本人は高度経済成長の中で心の豊かさからものの豊かさのみを追求するそんな心の変化を遂げていたのではないかなと思います。
 ご承知のように戦後の昭和20年代は、日本人は食べることが精一杯のその日1日1日を生きるのに精一杯の時代を送ってまいりました。そして昭和30年代後半高度経済成長時代を通して日本人は、欲しいものを大量にやすく手に入れようとしました。そしてパブルの時代、日本人は自分の欲しいものをどんなに高くても手に入れようとしました。
 そして、パブルが崩壊したいま人々はそれぞれのライフステージに応じて自分に見合った良いものを手に入れようとするそんな時代に大きく変化をしてきました。
 こうした中で、わたしたちの東北、宮城は豊かな自然が数多く残され、他の地域では無造作に失ってきたものを今でも大事に伝えています。それを再評価し、いまのありようを考えて見ることは重要なことです。ふるさとの歴史や文化をしっかりと知ることは大変大切なことです。みちのく≠ニいう言葉に象徴される地方が、今こそ日本人の心の再生のため大きい役割を果たしていかなければなりません。
  ところで 私の家には「おじいさんの部屋」と呼んでいる部屋があります。幼かった頃から家を訪れた相応のお客さんを通す、子供心には時空を越えた世界が展開する神秘的な部屋です。
 祖父寧裕は、慶応3年登米最後の館主邦教の子として生まれました。激動の明治初期東京に住まいした親元から離され、淋しい幼少時代を過ごしましたがまもなく上京。東京外国語学校で清国語を学び、明治16年外務省から清国留学を命じられ、さらに明治19年アメリカに留学し、農業、建築をはじめとするさまざまな学問を修めました。帰朝後は、伏見宮の直属通訳官として宮様の側近く仕え日清戦争に従軍しました。
 祖母秀子は、長崎の著名な蘭学者の家として知られる横山家の娘として生まれました。横山家は1640年江戸幕府から世襲制の通詞を拝命した三家の一つで、代々勝れた人材を輩出し、日本外交の第一戦を担った家です。秀子の父貞秀は初代長崎税関長、長崎県参事(知事)、大蔵書記官、東京海上火災取締役を歴任、兄貞嗣は、三池製作所所長を歴任するなど旧三井財閥の重鎮でした。その関係から大隈重信、渋沢栄一、大倉喜八郎、団琢磨など当時の政財界の要人とは親しい間柄でした。
 寧裕と秀子の媒酌人は旧仙台藩着座の家に生まれた日銀二代総裁富田鉄之助ですが、結婚祝いに贈られた品や日常生活で使用した思い出の品がほぼ完全な形で大切に保存されてきました。順調な人生を歩むかにみえた二人でしたが、郷里の兄の急逝とそれに伴う生家の混乱と崩壊によって、やむをえず伏見宮の許可を受けて一時帰郷しました。
 台湾にいた伏見宮から再三復帰を促され、その経歴を惜しんだ横山家からも早急な上京を促された手紙が数多く残されていますが、青雲の志を絶った寧裕は、二度と世に出ることはありませんでした。
 東京の屋敷を売り払い家財道具を処分して、今の場所に移り住んだのです。寧裕はひたすら子供の教育と、読書に明け暮れる日々を送りました。書籍は全て東京から取り寄せました。多くの文人墨客が訪れ記念の品を残していきました。
 昭和20年3月寧裕は、死去しました。とりわけ父の嘆きは大きく、悲しみを少しでも和らげようとしたのでしょうか。父は寧裕の部屋をそのまま封印、保存しました。その部屋は時の移ろいを忘れたように、そのままの姿を今に伝えたのです。
 昭和46年父は交通事故に遭い、10数年におよぶ療養生活に入りましたが、歳月は父の惜別の思いを少しは薄れさせたのでしょう。そっと手を付けずにしておいた祖父の遺品の整理を始めました。数万点に及ぶ祖父の遺品は徐々にその姿を現してきました。一つ一つは決して金銭的に価値のあるものではありませんが、明治・大正・昭和初期を生きた当時の知識階級の生活のあとをしのぶには十分な遺品であります。
 父の亡くなった後、私は父の意志を継承し今日にいたっています。整理に伴いそれが物理的に立体化することによって置く場所に苦慮しました。市博物館からは保管場所の提供など言葉に尽くせぬ配慮を頂いています。私の生きている間に何とか整理をしたいと思っています。そしてそれらの一部でも多くの人々に見ていただくことによって、明治・大正・昭和の時代を考えてもらい、将来を考えていくうえにおいての一つのヒントになればそれに過ぐる喜びはないと思っています。岩手県住田町や宮城県豊里町で継続的に行っている「明治黎明展」は、その試みの一つであります。  それが祖父や父が果たせなかった、社会に対する報恩の証でもあると考えています。