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みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
菅江真澄の旅
2002年5月11日


 三河の国(愛知県)で生まれた菅江真澄(本名臼井秀雄1754〜1829)は、30歳のとき、長野へと旅たち、以後、新潟、山形、秋田、青森、岩手、宮城、北海道を巡り、48歳のとき秋田に入り、その後28年間を秋田で過ごし、76歳のとき角館(秋田県)で没しました。
 真澄の著作は内容が豊冨でさまざまな専門分野にも及び、また、近世の庶民生活の様子が、わかりやすく絵を添えて記され、歴史や文化を知る上で数多くのヒントを私達に与えてくれます。真澄の生涯は一貫して観察者としての姿勢が貫かれ、学びつづけるものとしての謙虚さを失わず、人生の大半を旅とその記録に費やしました。
 真澄の旅は、1783三年飯田(長野県)で風越山の桜を跳めるところから始まります。その時の記録『いなのなかみち』には、飯田より跳めた風越山を見て、

  風越の蜂のうへにてみるときは雲は麓のものにそありける

と詠んでいます。真澄は飯田から信濃を縦断して、日本海へ抜けますが、その間諏訪湖周辺の記録『すわのうみ』や姨捨山での月見の記録『わがこころ』なども残しています。
 1785年のみちのくの旅は、主に盛岡藩、仙台藩の旅が中心でこの3年間の間に酉磐井郡山目村(一関市)の大肝入大槻清雄、東磐井郡大東町大原の芳賀慶明宅で『はしわのわかば』を記しました。
 真澄は長い旅を通して地方の歌人を始めとする当時の知識人と幅広い交流を行い、各地に数多くの足跡をとどめました。
 1788年真澄は蝦夷地に渡り、4年間をこの地で過ごします。
 蝦夷地は自由な往来が厳しく制限されていましたので、松前藩の上級武士たちと和歌の贈答にあけくれ、五百首の歌を記載した『ちしまのいそ』を残しました。翌年二度目の旅では、有珠岳登山が目的で、この時はアイヌの人びとの家に宿泊し、生活ぶりをじかに見聞し、アイヌ民族の様子を収めた『えぞのてぶり』を残しました。
 1792年北海道をあとにした真澄は、下北半島に渡りここで『おくのててぶり』を始めとする六冊の日記を残しました。この地方の知識人と交流をし、地方の文人と詠みあった歌が多数採録されており、一日一日を充実して過ごしていたことがうかがい知られます。
 1801年青森をあとにした真澄は、秋田県八森町に至りました。旅の始め庄内を経て由利に足を踏み入れてから17年のあとのことです。このあと10年余り能代を拠点として、山本郡と北秋田地方の旅に費やし、30余りの日記と、『雪見花』と総称される地誌『出羽路』三部作の著作や、書屋「笹の屋」での随筆活動を行いました。
 秋田に落ち着いた真澄は、ここでこの世を去るまで多くの著作を残しますが、特筆されるのは『雪の出羽路』『月の出羽路』『花の出羽路』と名づけられた三部作です。これは藩の許可を得て始められた事業で、真澄が長年にわたる旅の中で鍛え上げられた透徹した眼で、美しく優しいたくさんの挿絵とともに、地域の文化や伝説などにも視線を注いでいます。
 真澄は各地で文物を数多く描きました。植物、鉱物、温泉、土器、石器、石碑、仏像、民具などさまざまな分野を対象にしています。それらを丹念に写生するとともに、ものの由来や性状、それに歴史的な位置付けや地域による違いについても考察しています。真澄の日記は、江戸時代の人々の生活を知る上で貴重な資料です。日常の暮らし振りについてはもちろんですが、それ以上に正月を中心とした年中行事や神祭りなどについても、興味深く記されています。日記から当時の人々の姿を描いた図絵がさしはさまれ一層はっきりとした暮らし振りを私たちに示してくれます。時にはどんな名文、美文で意を尽くしても一枚の図や絵にかなわないことがあります。真澄の図絵は本文と相俟って味わい深い絵、あるいは意義のある図が数多く用いられています。そのような中で『ひおのむらぎみ』は八郎潟の氷下曳き網漁を描いた連作として有名です。本文での記述もさることながら、一連の作業手順が図絵だけでも辿れるくらいに描ききったものとして知られています。そこでは、漁の姶めの神祭りの様子が描かれ、その他の著作の年中行事や信仰の図柄同様、今日では比較にならないほど丁寧で恭しく、いかにも晴れがましい様子を伝えています。真澄は各地にお世語になったお礼として色紙や短柵などを残してきましたが、当時の人々がいかに暖かく真澄を迎え入れていたかを知ることができます。

  うぐいすの羽風も匂へ行袖に花ぞこぼるる梅のしたみち 真澄