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みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
「母との永訣の別れ」
2008年11月9日


 

平成20年11月4日、母は眠るようにこの世を去った。心のこもった弔辞を親友である多田欣一岩手県住田町長から、お別れの言葉を父が亡くなり山の一軒家で一人きりになった祖母を気づかった孫(私から見れば姪)の尚子から語りかけてもらった。25年ぶりで母は父と再会したことだろう。山の一軒家はまた淋しくなった。喜びも悲しみもこうした移ろいを刻みながら、私もまた大自然の中に帰って行くのだろう。

1 弔辞
   さまざまのあはれを込めて梢吹く
           風に秋知るみ山辺の里
 これは西行法師の歌ですが、秋も深かまった本日、伊達幾久様の御霊前にお別れの言葉を申し上げねばならないのは、私の大きな悲しみであり心から哀悼の意を表するものであります。
 ご子息宗弘様とは、学生時代同じ研究室で4年間を共にし、以来今日まで40年以上のご厚誼をいただいております。
 それが縁で登米のご自宅にもしばしば伺うようになりました。
 幾久お母上様は、いつでも物静かで、私どもにも柔らかい、本当に丁寧なお言葉でお話しいただきました。お話しの端々では、ユーモアたっぷりでその場をゆったりとして下さる、そんな人に対する優しさをもった方でありました。
 幾久様は、特に私には同じ岩手の人間として、お声をおかけいただいたのではないかと思っております。
 幾久様は、岩手県南を代表する素封家佐々木家にご誕生されました。ご生家佐々木家は豪農ですが、藩政時代は仙台藩北部の和紙を一手に扱う商人として財をなし、明治以降も大地主として、代々郡会議員、県会議員、国会議員を輩出した正に名門の家であり、一方では教育にも熱心なお家とも聞いております。
 幾久様も岩手の小学校から宮城第二女子高等学校に進まれ、卒業後は、当時日本で最もモダンといわれた東京家政学院に学び、創始者である大江スミ先生の薫陶を受けられたと伺っております。新女性教育の草創期に、その息吹の中で多感な時代を過ごされてきた方でなければ、と思うお話しが時として垣間見られたのは、そのような教育の中で培われてきたものと思われます
。  幾久様の生きてこられた時代は、まさに日本史の縮図のような時代でもありました。学生時代は大正デモクラシーの真っ只中、自由な時代を謳歌されたことでしょう。
 18歳で親の決めたご主人と結婚され、以来今日迄約80年この登米で過ごされてきました。激動の昭和の時代に6人のお子様をお育てになられておりますが、並大抵のことではなかったと拝察いたしております。
 特に戦後は、農地解放などで経済的には、決して豊かとはいえない時期もあったと拝察いたしておりますが、そうした困難が大きければ大きい程果敢にそれを乗り越えながら、お子様たちを明るく立派に育てられたのではないでしょうか。正に自分の生きる姿を通して、お子様たちは育てられたものと思われます。
 お宅にお伺いするたびに感心させられるのは、伊達家の歴史の深さを守っているお姿です。代々伝わる歴史的価値を持った書・図絵とともに着物、食器、調度品すべてを大切に扱われ、しかもそれが私たちの前にさりげなくある。この家では大切に扱い保存されてきているとつくづく感心したものです。
 私は、突然お伺いすることもありましたが、何時も針仕事、時には庭に出て草取りをしているお姿に触れ、その人間としての大きさ、お孫さんとお話しをするときのあのお優しい目を忘れることは出来ません。
 本当に「私は幸せよ」という思いが私たちにも伝わってきます。筆まめでよくお手紙を書かれていたとも伺っておりますが、いつもないだ湖の面のような広い、そして静かなお心を写したお手紙だろうと思われるところであります。
 お別れするのは悲しいことです。さびしい気持ちでいっぱいです。 幾久様、本当にお世話になりました。今日はあなたにいっぱい、本当にいっぱい愛された人たち、そしてあなたを本当に敬愛している人たちがお別れに来ております。本当にありがとうございました。
   幾久様のこよなく愛したここ登米の山懐にくるまれてどうぞ安らかにお休み下さい。
 万感の思いを込めて、お別れを申し上げます。
             平成20年11月7日
                岩手県住田町長  多 田 欣 一

2 お別れの言葉
 おばあちゃま、いまこうしておばあちゃまにお別れの言葉を話そうとしている私を「ほほほ、たかちゃんたら・・・・」て笑いながら見守っていて下さっているのでしょう?
 おばあちゃまのことを考えるとき、おばあちゃまとお話しをするとき、2児の母になった今でも私は18歳の娘に戻ってしまいます。
 おじいちゃまが亡くなられてしばらく、私はおばあちゃまと過ごす時間が沢山ありましたね。あの頃私はただ、おばあちゃまのお側にいて、一緒に食事をして、一緒にお相撲や時代劇を見て、一緒にお買い物に行ったり、きしょこおばさんや清野さんとお茶のみをして、そんな風にして毎日を過ごしましたね。特に何をしたという訳ではないけれど、おばあちゃまと私の本当に大切な時間でした。
 おじいちゃまが亡くなって、きっととてもお淋しかったと思うのに、私の前で涙を見せたことはありませんでした。でも、一度だけ、お庭で摘んだヨモギでつくった草もちをご仏壇にお供えに行かれて、なかなかお台所に戻ってこないので、呼びに行こうとのぞいたら、そっと涙をぬぐっていたお姿、忘れることができません。
 おばあちゃまの愛する大切な旦那様、おじいちゃまに会って25年間の想いをお話ししているところですか?
 「私のお葬式には、こなくていいんだからね。死んだらすぐに、たかちゃんに会いに行くんだから」っておっしゃっていましたね。
 ごめんね、おばあちゃま、私気づかなかったよ。
 今、私が暮らしている長野に、一度もご招待することができませんでしたが、私の嫁として妻として母としての暮らしぶりはどうですか?合格点はいただけますか?
 結婚が決まったとき、次のように教えてくださいましたよね。
 嫁いだ先のお父さんお母さんを自分の両親以上に大切になさい。
 旦那様を一番に大切になさい。
 嫁いだ家を守るお手伝いをするのが一番のお務めですよ、と。
 旦那様を大切にとの教えの中で「重い物を旦那様に持ってもらうなんてしてはだめよ。
 例えば一俵のお米だって口を開けて少しずつ運べば、自分でできるのだから、旦那様をわずらわせてはいけないのよ」という話しは、現代っ娘の私には、衝撃的な考えでした。
 でもその教えはおばあちゃまの娘である母の姿にもしっかりと伝えられているものだとも思いました。だから今も、「旦那様を大切に」という言葉は心の中にあって、できるだけ自分でできることは主人に頼らずにしているつもりです。(・・・もしここに主人がきていたら、首を傾けているかもしれませんが・・・)。
 おばあちゃまは登米のお山を愛しておられましたよね。私たち孫は小さな子どもの頃から登米のお山が大好きでした。それは、おじいちゃまがいらして、そしてそれをしっかりと支えて家族を繋ぐ要のおばあちゃまがいてくださったからですよね。
 今登米のお山は、宗弘おじさんがいらして、しっかりと寄り添って支えてくださる康子姉さんがいらして、たくましい大学生に成長した宗純君、そしてしっかりと聡明な惇子ちゃんがいて、ねぇ、おばあちゃま、何も心配なことはありませんね。
 私たち孫やひ孫たちも、みんなきっとおばあちゃまのお姿から、お言葉から、いろいろなことを感じ、学んで大切なことを受け取っています。
 これからは、天から私たちを見守ってくださいね。
 そして、それぞれがまた、おばあちゃまの所へ辿りついたら、登米のお山で見せてくださった、いつもの笑顔で迎えてくださいね。
 大切なおばあちゃま、いつまでも大好きです。
            平成20年11月7日
            お祖母ちゃまを大好きな孫  尚子

3 喪主挨拶
 本日はお忙しい中、母の葬儀にご参列を賜り心から御礼を申し上げます。
 母の生きた97年はまさに日本史の激動の縮図のような時代であったろうと思いますが、母は母と同世代に生きた皆様が共通してお持ちの進取の気質と、何にもめげない強靱な精神力を持ち合わせていたのではないかと感じています。
 経済的には豊かさとは無縁でしたが、のびやかな環境の中で私たち姉弟は育てられたものと感じております 孫や曾孫もみな共通してそれぞれ豊かな心を与えてもらったのではないかと思っています。
 私たちの兄弟は、家に帰れば何時も母がいるものと考えておりましたし、それが当然だと思って育ってきました。国語も数学も英語も高学年まで母に聞いていましたので、当時としてはレベルの高い教育を受けたのだなーと感じていました。
 父の自慢は母のことであり、母の両親のことでした。父の誇りであり心の支えでもあったのでしょう。父が亡くなるときの心配は亡き後の母の行く末のことでした。父の亡くなった後、いくばくか父の期待にに応えることが出来たのではないかと考えております。
 母がいなくなり、山の一軒家は淋しくなりますが、何時も訪れる小鳥たちや四季の織りなす多彩な変化をこれからも静かに刻みながら、静かに時が移ろっていくことでしょう。
 ご参列の皆様には、生前母が賜ったご好誼に感謝を申し上げますとともに、これからもご厚情を賜りますこと、そして皆様方のご健勝をお祈り申し上げ感謝の言葉と致します。
               平成20年11月7日  伊 達 宗 弘

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