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みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
「香わしき迫の文化の源流ー郷土の先人の足跡を訪ねて 」
2008年12月14日


 

  万代とすみやわたらん池水につきせぬ秋の月ぞさやけき
     400年前の佐沼城主津田景康の歌ですが、芸術・文化に親しむ秋を迎えました。
 本日は迫文化協会創立30周年を迎えられましたこと、心からお祝いを申し上げます。20周年に引き続き記念講演をさせて頂きますこと、身に余る光栄に存じております。20周年記念の時も、本日と同じく佐藤皖山先生ご夫妻の記念演奏もございました。ご縁の深さと、歳月の移ろいに感無量なものを感じております。
 登米市各町は大変文化活動が活発であります。私は地域振興課時代には祝祭劇場を作るための県の制度である「広域活性化プロジェクト」の創設に、文化振興課時代には第1回県民文化祭をここ祝祭劇場を会場に開催することについての合意形成に関わらせていただきました。
 また総合計画策定、国土計画策定には常に登米地域を担当しておりご縁の深さを感じています。第1回県文化祭の開催にあたっては、その中心的な役割を果たされたのが迫文化協会であります。また祝祭劇場を創る原動力となった署名活動は迫文化協会に所属されている多くのみなさま・団体の皆さまの熱意の賜であります。このように迫文化協会におかれましては、市内各町の文化活動に大きな牽引の役割を果たしてこられました。改めて敬意を表するものであります。
 芸術・文化は人の心を豊かにし、人と人との垣根を取り除き、国と国の境を越えて人類が共有できる貴重な財産でもあり、今後ますますその果たす役割は大きくなることと存じていまっす。  本日の30周年を契機に文化の華を香しく咲かせつづけ、さらに大きく飛翔されますこと心から祈念申し上げるものであります。
 迫文化協会には75の団体1300名の多数の会員数を抱えておられます。県内においてもとりわけ迫文化協会の活動は多彩で活発ですがどうしてでしょうか。私なりに歴史的な経緯も踏まえながらお話しをしてみたいと思います。
 まず私の歴史や文化に対する考え方からお話しをさせていただきたます。昭和25年3月平泉藤原三代の遺体の学術調査が行われました。三代の遺体を納めた棺は、寒さのまだ残る金色堂の須美壇から運び出され250メートルほど離れた本堂に安置されたあと厳かな遷座法要と学術施工式が行わたあと、棺のふたが次々と開かれていきました。棺のふたが開かれ初めて秀衡に対面した大佛次郎はその時の感動を次のように記しています。「私は、義経の保護者だった人の顔を見守っていた。想像を駆使して、在りし日の姿を見ようと努めていたのである。高い鼻筋は幸いに残っている。額も広く秀でていて、秀衡法師と頼朝が書状に記した入道頭を、はっきりと見せている。下ぶくれの大きなマスクである。北方の王者にふさわしい威厳のある顔立と称してはゞからない。牛若丸から元服したばかりの義経に、ほほえみもし、やさしく話しかけもした人の顔が、これであった」。
 棺のそこからは金でできた豆粒ほどの小さな鈴が出てきました。その鈴を拾い上げ静に振って音を聞いた中尊寺執事長の執事帳はその感動を次のように記しました。「黄金というには余りに可憐な金の小鈴、思わず呼吸をつめた私は、目を閉じ心意を一点に凝らして、静かに静かに振ってみた。小さく、貴く、得も言われぬ神秘の妙音。八百年後の最初の音を聴き得た身の果報。それはまさしく大いなるものの愛情による天来の福音であった。連日続くあの騒擾に、恐らくすでに爆発寸前の感情にあったろう私は、文化を護る道は、ただ〃愛情″の二字に尽きることを、この瞬間に強く悟り得たのであった」。
 私もまさに歴史や文化を正しく継承し、これを時代にしっかりと伝えるのは歴史や文化に対する尊敬と愛情と申しますか、温かい心があって初めて可能なのではないかなと考えております。そうした目でそうしたし視点で迫の歴史と文化の源流を辿ってみたいと思います。
 まず迫町の地政学的な位置づけでありますが、佐沼を中心としたこの辺一帯は自然に人と物の落ち合う場所であります。私が見るところ中新田町もそんな地政学的な位置づけを持っている場所ではないでしょうか。そうした地政学的な位置づけがあつたればこそ、古くから歴史を刻んでまいりました。迫のシンボル「鹿ヶ城」について『伊達秘鑑』には「城のまわり川流れ水深く、一方は深田、一方は大海のごとき大沼、一方は平地に続くといえども堀を掘り、やぐら、馬出し、逆茂木を取付け、まことに堅固な城」と記されている要害の地であります。築城は平安末期平泉藤原時代、照井太郎高直によると伝えられ鹿を生け贄にしたところから「鹿ヶ城」と呼ばれるようになったと伝えられています。要害鹿ヶ城≠ヘ、激しい攻防の場となりますが、有名なのが豊臣秀吉の奥羽仕置で、領地を没収された葛西家のあと入城した秀吉の直臣木村吉清父子に不満をもった葛西・大崎の遺臣が起こした葛西・大崎一揆であり、今にその秘話が伝えられれています。その後伊達政宗の重臣津田景康が入城し七代150年の歴史を刻みました。
 しかし譜代の名門津田氏は、仙台七代藩主重村のとき改易され、その後250年前宝暦7年亘理氏六代倫篤が高清水から佐沼に移封され、佐沼における亘理氏の治世がスタートしたのであります。そして亘理氏が佐沼に入城したころをさかいに、佐沼の文化振興の気運が一挙に高まってまいりました。
 当時の日本における文化を巡る環境について振り返ってみたいと思います。
   亘理氏六代倫篤が佐沼に入城する150年前1603年徳川家康は、江戸に幕府を開きました。家康は、風流や趣味のためではなく国を治めるために、理論としての学問、倫理としての学問を重んじたのであります。そのため『吾妻鏡』をはじめ『貞観政要』『孔子家語』など、うずもれていた書籍等を出版し、それらによって政治上のヒントを獲得しようと努めるとともに、諸大名や執政に対してもそれらを読むことを強く勧めたのであります。したがって家康は学者を尊重しました。天海僧正、以心崇伝なかでも勤勉で博学で忠実な林羅山に注目し、これに手厚い保護を加え、羅山の信奉する朱子学に傾倒し、これを育成する土台をつくったのであります。朱子学は社会秩序を固定的な、自然的なものと考えるところに特徴があり、宇宙の原理からとき人間社会には階級というものがなければならないというようなこともといた学問であります。すでに天下を掌握した家康にとっては、このような教義は大変都合の良い教義ではありました。羅山は壮健で家康、秀忠、家光、家綱四代の将軍に仕え、上野忍ケ岡に広大な敷地を賜り、ここに学問所(昌平坂学問所の前身)を建設し、幕府の典礼と文化を重んじる礼文政治をかたちづくることに貢献したのであります。朱子学は幕藩体制の強力な防具とはなりましたが学問を奨励したことは朝野に多くの知識人を排出し、この多くの知識人こそ、二百有余年後の幕末維新の黎明期には、西欧文明を急速に、かつ適切に消化し、日本の近代化を進める原動力となったのであります。
 仙台藩においても5代藩主吉村の時学問所は設立されますが、250年前この学問所を養賢堂と改め施設・内容の充実を図った改革を行なったのであります。この養賢堂は、仙台藩の文教の振興を図る上で、大きな役割を果たしました。養賢堂をはじめ、修学の気運の高まりを受けて設置された地方の郷学(江戸時代、庶民および藩士の教育のため、藩主または民間の有志が設立した学校。藩校と寺子屋の中間を占め、主に読書・習字・算術などを教えた)、私塾、寺子屋などの発達によって、学問・文化が庶民にまで行きわたり、庶民出身の学者や文人らが生まれてくるようになったのです。
 さらに仙台藩は藩内に布告を発し、子弟の学問をすすめ、特に優秀で江戸遊学を望む者には、藩費を支給すると共に、庶民の子弟のため寺子屋への入塾を奨励したのであります。こうした影響を受けて登米地方には寺子屋が急速に普及し、津々浦々まで学問が行き渡ったのです。登米地方の寺子屋は登米郡史によると全部で110塾ありました。教本として『農家手習』『百姓往来』『女大学』そして平仮名や習字、算盤を取り入れ、士分の学問所では、これに加えて『四書五経』『唐詩選』『片仮名』なども教授していました。
 これらの寺子屋における子弟教育とあいまって、とくに佐沼には多数の儒学者、漢詩人、医家、歌人、俳人、剣術家、柔術家、画家などが集まり、さながら「仙台藩北部の文化センター」の観を呈するようになり、お互いの交流はもとより、向学心に燃える若者たちに、漢学塾、洋学塾、国学術や剣術、柔術、兵法、砲術、弓術など、高度な学問と技法を教授する家塾が軒を並べ、若い世代をはぐくみ育てたのです。
 まさに亘理氏が佐沼に入城してきたときが、そうしたダイナミックな時代の始まりでした。
 佐沼の学問は儒学者の目々沢樗軒・鉅鹿父子を中心とする漢学から花開いていきました。当時、新田駒林には江戸で名を馳せた儒医黒沢東蒙がおり、佐沼を中心とするこの辺一帯の人々は2人の著名な学者の教えを受けられるような好条件に恵まれていたのであります。加えて当時仙台を代表する学者畑中荷沢が館主亘理氏の招請を受けて、佐沼に出張教授を開始するにいたって、多くの俊秀が畑中荷沢のもとに殺到し入門、佐沼に於ける漢学への関心は一挙に高まったのです。
 目々沢樗軒の子息鉅鹿は亘理家の家老ですが若くして仙台の一流学者と肩を並べ佐沼に於ける学問の大御所として館主を教授し、さらに目々沢氏の私塾好古堂の塾の学頭として活躍しますが、好古堂は文化・文政そして幕末へ引き継がれ千余名を越える門人を養成、目々沢学閥といわれるほど多数の俊秀を排出したのであります。目々沢鉅鹿は佐沼の学聖、学問の神様として今日も多くのみなさまの尊敬を受けているところであります。
 こうした学問・文学を大切にする気風のなかで多くの文芸作品も作られますが、明治43年、45年の佐沼大火など度重なる火災で多くのものが焼失してしまいました。目々沢鉅鹿は『鉅鹿百首』など多数の著書を残しますが、「死してなお主家を護らん。宜しく遺骸を邑主の館に向けて収むべし」と遺言したと伝えられています。鉅鹿の没後鉅鹿の遺作『東海魚唱』を見た江戸の安井息軒は「鉅鹿もし江戸にありしかば、蓋しこの書により名声天下に轟いたことであろう。惜しむらくは僻遠の一家老として埋没したことは遺憾の極みである」と嘆いたと言われます。
 激賞された七言律詩の一つ紹介したいと思います。
    大武峯に登る
   層峰は東に跨りて遐荒に接し
   梵閣は空を凌ぎてE茫に望む
   大澤に風は廻りて金澤響けば
   重輪は日に転じて玉毫光やく
   松は深洞に横わって神容古り
   花は空階を掩いて法水香る
   道ならくこれ将軍旆を停むるの地
   今に至るも雲気の飛揚せんと欲するを
     このほかにも、世にいう「伊達騒動」の関係資料を網羅した鈴木春英の『在田利見抄』、はじめ和算家の南寛定の『和算当用全書』、俳句の振興に貢献した小国丹宮の『蕉風振興』、新妻卵啼の『養育草』、中村竹径の『南都紀行』など多くの著書が編纂されたのであります。
 俳壇も新妻卵啼を始祖とし活発な活動を展開、鈴木可也など多数の俳人を輩出しました。書道についても目々沢鉅鹿、亘理三江、畑中荷沢、荒井雨窓らが優れた墨跡をとどめています。
 画壇についても半田卵啼、加藤南峰、新妻巣鶴が佐沼の三大画人として一世を風靡しています。
 和算も盛んでした。明治になり文部官僚であった旧佐賀藩主鍋島直正は300緒藩の学問所の教科を調べ仙台藩だけが唯一和算を正規の科目として教授していたと嘆賞していましたが、とりわけ佐沼を中心としたこの辺一帯から一関地方においては和算が盛んでした。
 南方町には和算を全国に広めた長谷川弘がおり、この流れを受けた南 寛定は、晩年佐沼において多数の門人を育成しました。
 以上、雑駁ですが佐沼における文化振興の一端を紹介しましたが、江戸時代佐沼を中心としたこの辺一体はさながら仙台藩北部における文化センターの役割を果たしていたのです。
 明治以降佐沼には郡役所がおかれ登米地域の中心として大切な役割を果たしてこられましたが、こうした素地は地政学的な位置づけに加えて先人達の営々とした蓄積の上に確立されていったのではないでしょうか。冒頭私は歴史や文化を守り継承するのは歴史や文化に対する尊敬と愛情があって初めて可能だと申し上げましたが、迫にはそのような気風が今日になお引き継がれてきているのではないでしょうか。
 先日、佐沼字沼向の町営の墓地を訪れました。ここには昭和42年佐沼郷土史研究会の皆様の努力によってつくられた「郷土先覚者墓地霊苑」があります。霊苑には先ほど紹介した佐沼における学問興隆の祖目々沢樗軒や葛西大崎一揆で荒廃した町割りを行い永代検査断を命じられた飯田筑前、産児圧殺の風習を改めさせた新妻卵啼、「伊達騒動」の関係資料を網羅した『在田利見抄』の著者鈴木春英、和算の大家南寛定など先人の墓地38基が合祀されています。なんと素晴らしいことでしょうか。
 私は「郷土先覚者墓地霊苑」にしばしただずみ往事を偲びました。迫の人たちは先人を如何に敬愛し、歴史を大切にしこれを後世に伝えようとしているかという心意気がひしひしと伝わってきた一時でした。 冒頭申し上げましたように歴史や文化を正しく継承しこれを次代にしっかりと継承していくのは何にもまして歴史や文化に対する尊敬と愛情ではないでしょうか。それは地域を良くすることにも通じるのではないでしょうか。  そろそろお時間ですから最後に山をテーマに私からのメッセージと致します。
 私たちの住むここみちのくの山々は、神宿る山であり雲の生まれるところであり、また水を涵養し、多くの幸を私たちにもたらし続けております。
 山の彼方には、まだ見ぬ見知らぬ豊かな世界が広がり、古くから人々は山の彼方にあこがれてきました。いつの時代も、人々は山を越えようとしました。山の頂に立つと今までとは違った景色や風に出会うことがあります。山を越えることは未知の国へ足を踏み入れることであり、無限の可能性に向けた第一歩でもあり、また「心の転折」を得ることでもありました。
 英国の著名な女流冒険家イサベラ・バードは、明治21年(1878年)7月宇津峠を越えて米沢に入りました。彼女は、『日本奥地紀行』というすぐれた紀行文を残しておりますが、その中で彼女はその時の感動を、次のように記しております。
 「私は、日光を浴びている山頂から、米沢の気高い平野を見下ろすことができて、嬉しかった。米沢平野(置賜盆地)は、実り豊に微笑みする大地であり、アジアのアルカディアである」。彼女は、宇津峠を越えたことにより、心の「転折」を得たのであります。
 本日、迫文化協会におかれては30年という大きな山を越えられ、そして限りなく広がる未来を見通せる位置におります。これからの歩みの中でもさまざまな山が横たわっているのではないでしょうか。時には大きな山が立ちはだかってくるかもしれませんが、迫文化協会におかれてはさん、これからも自信と誇りと勇気をもって一つ一つ山を越えられ、時には山の頂に立って新しい風に当たられ、心の転折を図られながら、さらに大きく飛翔されること祈念申し上げます。
 900年前の歌人源俊頼は、宮城のシンボルでもある宮城野の美しさを通してみちのくの奥ゆかしさを絶唱し、
  さまざまに心ぞとむる宮城野の花のいろいろ虫のこゑごゑ
という和歌を千載和歌集に残しております。何と美しく何と心豊かになる和歌でしょうか。迫文化協会におかれましては登米市がいつもここに住む人たちにそして訪れる人たち優しく微笑み語りかけるそんな場所でありつづけるよう、これからもお力添えくだされますことをお願い申し上げ、私の今日の役割を果たさせていただきます。
     平成20年9月20日(土) 祝祭劇場に於いて

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