トップページへ仙台藩最後のお姫さまみちのくの文学風土
みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
「エッセイ想い出ー3」
2011年12月25日


 

 平成23年3月11日東日本大震災が起こった。予想だにしなかった大地震と大津波、加えて原発事故は大自然からの人類への警告であると思わざるを得ない。私たちは科学や技術の力を過信してきたのではないだろうか。そんな気持ちで一杯である。
 私は国土交通省の北上川水系河川整備学識者懇談会と名取川水系河川整備学識者懇談会の委員を委嘱されている関係で、被災地を見て回る機会も多い。水清く緑美しかった三陸海岸や、広大な山元や亘理や名取の荒れ果てた田園を見るにつけ心が痛む思いがする。私の住んでいる登米市登米町は南三陸町に隣接しているため、緊急避難施設や遺体収容施設などが置かれ、また自衛隊や警察の人たちの宿泊拠点にもなっていた。
 震災の初期の頃の、悲惨な光景はいまでも忘れることが出来ない。明らかに徒歩で目的地へ向かっている人たちを数多く見た。一人は大船渡の娘の卒業式に行くため新幹線で地震に遭い仙台駅で降ろされたそうである。徒歩で登米にたどり着いたのである。家族の安否も分からずただひたすら歩いてきたのである。私の車にはガソリンはほとんど無かったが出来るだけ近くまで送った。「頑張ってください。ご家族はきっと無事ですよ」と言って励ましたけれど無事に家族に会えたろうか。旅姿で登米大橋を歩いている人を見出した。「どちらへ行かれるのですか」。「石巻です。女川町出身で大船渡に勤務しており被災しました。妻も女川出身で石巻の銀行にパートで働いていますが、携帯での連絡が取れずバイクで千厩(岩手県)まで来ましたが、ガソリンがなくなり歩いて来ました」。果物やお菓子をあげて車で途中まで送った。やはり私の車にはガソリンがなかった。いまでもその人達はどうなったかと思い出す。終戦直後のような光景を目にするとは思わなかった。
 北上川河川水系河川整備学識者懇談会で現地視察をした。大川小学校を見た。慰霊碑の前で若い女性が一人で碑に向かって深々と頭を下げ何時までもただずんでいた。彼女の脳裏にはどのようなことが去来しているのだろうか。
 山の中腹に綺麗な着物や帯が木の枝に引っかかり風を受けて揺れていた。下にはたくさんの生活のあとをうかがい知れるものが散乱していた。とかく公務員は批判される風潮が社会には満ちているが、担当している国土交通省の人たちは睡眠を十分とっているのだろうとさえ考えてしまう。いわんや自衛隊、警察官の人たちは、悪条件の中で被災地の救援のため頑張っている。彼らを支えているのは、ひたむきな崇高な使命感だけではないだろうか。
 私の住んでいる登米の町は400年の伝統を持つ城下町である。震災してから1ヶ月以上大型店舗などが再開しない中で、百足屋という 果物や野菜、魚を売っている店では一日も休まず営業していた。毎日新鮮な野菜や果物、新鮮な魚が通常と変わらず販売されていた。登米の町の人たちの多くはこの店一軒で特に食料には困ることはなかった。さらに立派だと思ったのは値段は通常と変わらない値段であった。歴史に裏打ちされた独自の流通ルートが存分に生かされた例だと思う。それに比べれば大型店舗の再開はだいぶ時間がかかったようだけれども、今回の地震はそのような意味で、いろいろな示唆を私たちに与えてくれたものと思う。この悲しい経験を未来のために生かしていくことが、犠牲になられた皆様への鎮魂の証ではないだろうか。小鳥たちは何事もなかったかのように四季の訪れを告げてくれてくれるのは、心の安らぎをい覚える一時でもある。