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みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
「日本の国のかたちーパート2」
2012 年4月23日


 

 明治時代になり江戸時代を悪くイメージさせようとしたのだろうか。江戸時代は封建時代で、江戸時代を創り上げた家康は豊臣家から政権を簒奪した陰謀家、策略家のようなイメージを植え付けられ、何か暗い陰湿な時代のように錯覚してしまうが、本当にそういう時代だったのだろうか。確かに士農工商という制度はあったけれども他国のような、身分の間が厳然としていたわけではない。街道を生き生きと往来していたのは、庶民であり多くの女性も旅をしていた。士農工商はあったけれどもその間が隔絶していたわけではない。
 八代将軍徳川吉宗の母は身分の低い市井の出である。
お茶の殿様で有名な松江の松平不眛夫人となる仙台六代宗村娘方子の母は林子平の姉の子であり、その姉の父親は幕臣ではあったが殺人の咎で職を失い、浪々の身であった。縁あり六代藩主の側室に迎えられたのである。その関係から林家は仙台藩士として迎えられたのである。
 さて明治以降悪いイメージで語られることの多い徳川家康は、織田信長が健在中唯一対等な同盟者であり、秀吉は信長の武将の一人に過ぎない。信長には成人した息子達もいたが時には死に追いやり、時には騙して織田家から政権を簒奪したのが秀吉という見方も出来るのではないだろうか。江戸時代はヨーロッパや中国のような厳然とした身分制度でがんじがらめになっていた時代ではなかった。江街道を生き生きと往来し、お花見、花火大会、祭りを楽しんでいた主役は庶民である。自分たちが楽しむため行っていたのである。ヨーロッパや中国の音楽や絵画や文学は王侯貴族や宗教のための音楽であり文学であり絵画である。日本では庶民も含めみながそれを享受していたのである。女性もみな生き生きと生活していた。
 そんな女性の地位が著しく貶められたのは明治になってからである。確かに外向きは多くは男性が行っていたかも知れないが、内向きは女性が中心となり行っていた。農民にしても今とは比較にならないほど貧しかったと思うけれども、貧富の差はさほどなかった。
 それが大きく変動するのは明治になってからである。江戸時代の戸籍に当たる宗門人別帳では、戸主の次に女房が位置づけられ、その後に子供そして老夫婦が位置づけられている。それが明治になり民法が制定されたことにより戸主の次に父母、そして伯父・叔母が位置づけられ、女房、子供と続いていく。さらに江戸時代は女性は生家の名字を名乗っていたが新しい民法の下で、強制的に嫁ぎ先の夫の名字を名乗らされ、その家の付属物のようになっていった。さらに農民に所有権を認めたことによって一挙に階層分化が進み、小作人に転落した農民とくにその子女は劣悪な環境のもとにおかれてしまったのではないだろうか。
 そのような目で、江戸時代を見てみたいと思う。
江戸時代草創期、幕府や各藩の国づくりにおいて、政をあずかる人達がみせた見識は、今もなお光彩を放っている。長く続いた戦乱の状態がどれほど人々に塗炭の苦しみを与え、貴重な伝統文化を破壊し、心までも荒廃させたかということを、彼らはしっかりと認識していたからである。その認識が二百六十余年にわたる幕藩体制を築き上げる原動力になったといわれる。世界に例をみない安定した泰平の世は、さまざまな分野の芸術文化を高め、日本人の心を豊かに育んだのである。
 その礎を築いた徳川家康は、風流や趣味のためではなく、国を治める理論や倫理としての学問を重んじた。唐の太宗と群臣との政治論議を編集した『貞観政要』などに着目し、治国安民を理想とする主旨から、政治上のヒントを得ようと努めた。治道の規範として政治家の必読書とされたこともあり、執政に関わる者たちにも読むことを勧めた。従って、家康は学者を大切にした。中でも林羅山の信奉する朱子学を取り入れ、これを育成する土台をつくった。
 朱子学は社会秩序を固定的な、自然的なものと考えるところに特徴がある。宇宙の原理を論じ、階級の必要性も説いた学問である。この教義を、現代には当てはめることはできない。しかし、天下を掌握した家康にとって、これは都合の良い教えであった。羅山は将軍の顧問として徳川四代の長きに仕え、幕府の典礼と文化を重んじる礼文政治を形作ることに貢献した。
 体制強化の牆壁としての朱子学は、結果的に学問を普及させ、朝野に多くの知識人を生んだ。この知識人こそ、後の幕末維新の黎明期において、西欧文化を適切に消化し、日本の近代化を進める原動力となったのである。
(これは、多賀城史跡案内サークル会報『いしぶみ』編集責任者 大山真由美に連載したものです。)