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みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
「日本の国のかたちーパート4ー鎮守の杜と日本人の心の原風景2」
2012 年4月26日


 

 私たちの生活は一定のリズムで成り立っています。平凡な日常の連続だけでは生活の維持は難しいものがあります。日常の合間に休みや楽しみが設定されて、はじめて平穏な日常を淡々と過ごしていくことができるのではないでしょうか。民俗学では日常の普段を「ケ」、普段の合間に差し挟まれる非日常つまり特別な時を「ハレ」と称しており、生活は「ケ」と「ハレ」の交互の組み合わせによって成立しています。一年をサイクルとしてみた場合に設定される「ハレ」は定期的な行事の日と言い換えてもいいのではないでしょうか。同じ時期がくると、ほぼ同じような形で実施される定期的な家ごとの行事を年中行事といっていますが、その内容は村落のような一定の単位でほぼ共通して行われています。大きな特徴は農耕の中でも稲作儀礼の過程に沿って組み立てられています。
1年をサイクルとして生活のリズムを大きく(一)余祝儀礼(二)水田作業の開始(三)虫を送る祭り(四)収穫の祭り(五)屋敷神の祭り(六)村の祭り(八)冬への備えに、大別して考えてみたいと思います。
 小正月というのがありますが、これは本来の正月ではないかと考えられています。稲作などの豊穣を祈る呪術的な儀礼が数多く見られます。そのなかの「余祝儀礼」は、来るべき一年間の農作業の行為を真似て行う模倣の儀礼を指しています。稲作の作業を真似ることによって行う模倣の儀礼です。その一つに「マユダマ」「団子さし」といわれるものがあります。水木に小さい団子や餅を鈴なりにつけ神棚や座敷に飾る行事です。飾った団子は木の花であり、稲の花が咲く状態を表すもので、稲の花がこのように咲いて豊作になるようにという願いを込めた行事です。そのほかにも稲作の豊作を祈る余祝儀礼は「田植え」という行事にも見られます。十四日に年男が雪の降り積もった田へ行き、豆穀、麻穀、稲藁などを苗に見立てて雪上に植えます。そしてその前で農作業の様子を演じ、神にその成就を約束させることを目的とするものです。田植え踊りはこれが芸能化し洗練されたものに形を変えたものと考えられています。
 「水田耕作」の開始は耕作地の下ごしらえから始まり、そこに種まきをします。こうした作業開始の時期は微妙に作柄に左右されることから、注意深い判断がなされました。樹木の開花や山の雪形など自然現象の観察による日取りの判断、自然暦を物差しとして判断されました。田植え後のサナブリも本来の意味は田の神の祭り仕舞です。古くは田の神をサの神などと称しましたが、サナブリはサ昇りの意味です。田植えに際して田の神が降り、田植えが完了すると田の神は再び帰って行くことを表していて、田植えそのものが祭りであったことを裏付けています。祭りとしての田植えは田植踊からも推測されます。
   稲作にとっての病害虫は最大の敵です。作物の病害虫も、害をもたらす神霊が憑依することによって起こるものと考えられていました。流行病や病害虫はマイナスの神霊つまり悪霊であり、それを居続けさせることはできないので、丁重にもてなしてから送り出してやらなければなりません。「虫送りの祭り」はこうした悪霊送り出しの祭りです。
 十月一日を県下ではお刈り上げの朔日と称し、餅を搗いて手伝いを受けた家や親類に配ったり、農具に刈り取った稲束を載せて餅を供える「収穫の祭り」は、収穫の喜びを実感する時でもありました。
 「屋敷神の祭り」は、収穫した新米で赤飯を炊き新藁の苞にそれを入れて屋敷神や近くの神々に供えました。屋敷内に祀る神は先祖神であると伝承するところもあり、先祖神は農家で最も心を配らなければならない重要な稲作りを守護する神でありました。柳田国男はこうした先祖神を祖霊と名付けています。
 秋祭りはどの家々でも、村落全体の神社でも数多く行われますが、こうした村の氏神も稲作を守護する神としての機能を多分に併せ持っています。旧暦九月九日に行われる大崎市古川の鹿島神社の御前講は典型的な新穀を感謝する祭りす。
 大晦日の「年取りの膳」は、家族全員がそろって食べる神と共食する正餐であります。暦の上では正式に年が明けるのは真夜中の午前零時となっていますが、わが国では古くからの考え方では大晦日の日没と同時に次の日が始まりました。したがって年取りは正月最初の食事であり、神と一緒に食事をとることによって、神の持つ霊力を分け与えてもらうことができたのです。
 「お年玉は」本来、年の魂(霊)を意味するものであり、歳神が与える年齢でありました。正月に訪れる歳神が与えてくれる丸い餅を食べることによって一歳年を取ることだったのです。この歳神は氏神などと同じ先祖神(祖霊)ではなかったかと考えられています。
(これは、多賀城史跡案内サークル会報『いしぶみ』編集責任者 大山真由美に連載したものです。)