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みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
「日本の国のかたちーパート4ー鎮守の杜と日本人の心の原風景3」
2012 年4月27日


 

 農業に機械が導入されるまでの稲作作業は、今日と比べれば大きなずれがあります。手植え時代の田植えは「相互扶助」なくして不可能でした。ユイと称される作業の互助が盛んになされてきました。村落の生活ではユイという互助は田植えに限らず、稲刈りや屋根葺き、冠婚葬祭など村落生活の多方面にわたっていました。一定期間内に完遂しなければならない各家の事業を手助けするため、自然発生的な社会のシステムでした。村落の生活では共同の意識が極めて強く、さまざまな面でこのシステムが機能し、個々の家の事業であっても共同的なあり方を示してきたのである。
 「ハレ」に際しては普段との違いが衣食住にも現れています。住まいにおいては神を迎える場をしつらえるため清め、穢れが入り込まないように注連縄などで区切り、清浄な場である表示をします。衣の面では普段とは異なる晴れ着を着用します。食生活でも「ハレ」と「ケ」は大きく異なります。わが国では「ハレ」の食べ物で代表されるのは白い米です。
 日本人にとっては米は主食としての穀物というよりは、神への供え物であり、「ハレ」のご馳走は神供のお下がりをいただくことでありました。
 今日の伝統的な生活の大部分の原理を生み出したのは稲作であるといっても過言ではありません。稲 作や稲がいかに生活の中に浸透しているかは、民族社会における民間信仰や儀礼あるいは呪術を見ても理解できるのではないでしょうか。
 神霊の鎮まる場所として「鎮守の森」があります。神社には森があり、神社境内の木々の中にも立派な老木が御神木の対象となってきました。
 神を祀るという行為の始まりは、狩猟採集の時代に遡るといわれています。当時の人々は自然の摂理を経験し、不明瞭な出来事を何者かがする業と考え、その何者かを神と呼び、それを畏れて祈ることを知りました。こうした人々は神の力を戴き、神と共に暮らしていくために、神の降臨を仰いで祀りました。
 その際、荘厳な山や森林、樹木、岩石などを神霊が招き寄せられ乗り移る依代と見なして崇拝しました。こうした依代は、神々が鎮まる神聖な森林や山である神奈備、神々が宿るとされる常緑の樹木である神籬、神々が宿るとされる岩石である磐座などと呼ばれ祭祀の対象となりました。神奈備と見なされる山は県内では花山村御嶽神社の御岳山、本吉の御嶽神社の御岳山などがその一例です。
 また、これらの依代は人々の住む集落に近く、かつ、霊地として神聖視された山や森林、岬などにあるものが選ばれました。それらの神々を拝する特別な場所、集落を象徴する神聖な場所とされますが、こうした鎮守の神の社域が神の鎮まる神聖な森、「鎮守の森」の起源と考えられています。つまり日本の「神社」とは、もと神の鎮まる神聖な森にほかならなかったのです。
 鎮守の森には、神のための特定の建造物は建てられませんでしたが、神を祀る祭礼の基本である祭りの規模が拡大し、それが臨時的なものから恒久的なものになるにしたがい、祭りのたびに依代を置く仮小屋が造られるようになり、それが発展して今日の社殿へと展開したものと考えられています。鎮守の森には巨樹・巨木、巨石のほか、民話や伝説に結びついた史跡が数多く残されています。
 鎮守の森が有する悠久の歴史、荘厳な景観と生態系、地域固有の祭りや習俗、史跡など後世に伝えることは大切なことです。鎮守の森は、地域の人々にとって神と交わる場所であり、情報交換の場でありました。現在においてもそこで繰り広げられる祭りなどを通して、地域の人々の交流と賑わいの場を与えています。また、その神聖で静謐な空間は、これからも人々にやすらぎと静けさを与え続けてくれるのではないでしょうか。
(これは、多賀城史跡案内サークル会報『いしぶみ』編集責任者 大山真由美に連載したものです。)