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みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
私の養蜂日記ーパート1
2012年11月18日


 

 今年、私は養蜂事業にチャレンジした。戦前、私の家では大々的な養蜂事業を展開、全国のデパートに出荷していた。しかし、戦争が始まり軍部へ納めさせられ、終戦を迎えた。当時は高価なもので傷病兵などへの健康管理にでも使われたのだろうか。今となっては想像するしかほかない。
 農地解放などで大きな打撃を受け経済的には困窮したけれども蜂蜜は豊富にあり、さらに父母は大量に安価にトマトが手に入ればケチャップを作り、サンマやイカが大量に手に入ればソーセージや燻製を作り、私たちの食卓を潤したものだ。
 養蜂は私が県庁に入ってからも続けられ、私も幼い頃から手伝いをしていた。しかし昭和46年11月父が交通事故で長い療養生活に入り、また私も県庁の仕事が忙しくなり、養蜂は止めざるを得なかった。いつかは養蜂を再開したい。そんな思いをもっていたが偶然、再開する機会を得て決意した。
 昨年、登米市内の産直センターで蜂蜜を買った。養蜂家の人の住所を見ると隣町の中田町の人だった。その人の家を訪ねた。その人は「父の代に貴方のお父さんから養蜂を学んだ。私も養蜂が好きで趣味でやっている。30箱ぐらいかな」と話してくれた。ここで養蜂再開の決心をした。
 その先生の指導を受けてこの4月岐阜の養蜂園から、ミツバチを含めスタートセット一式を購入した。ミツバチが箱ごと送られてきたとき、その先生は直ぐ駆けつけてくれ丁寧に手際よくミツバチの箱をセットしてくれた。間もなく飛び回るミツバチを見たとき、時を超えて一時途絶えていた家業が再開出来た喜びをしみじみと感じた。その先生は寸志を惜しまず駆けつけてくれいろいろ指導してくれた。かって養蜂を手がけたとはいえ主役は父であった。
 多忙にも拘わらずその先生からはかなり丁寧に養蜂のノウハウを伝授してもらった。先生は30年以上の年月をかけて体得された技を全て私に伝授してくれたのだ。先日は厳しい冬に備えた冬囲いの指導を受けた。
   先生の家は古い歴史を持っている家で、450年前伊達政宗の父輝宗からご先祖が贈られた感謝状などが伝えられており、襖絵には画家の描いた山水画などが描かれている。曾祖父にあたる方は明治天皇の東北巡幸の時拝謁されており、産業の振興などに大きな足跡を残された方で、仙台人名大辞書でも詳細に紹介されている逸材である。祖父に当たられている方も会社を創設し、宮城県の経済の発展に大きく貢献されている。
 ご自宅には明治初期以降のご先祖の油絵の肖像画が掲げられているが、みな洋装で勲章を付けられていた。巨石、巨木、立派な植木鉢などがあり、お家も山形の宮大工が丹精込めた贅の限りを尽くしたものである。そうしたお宅で大切に育たれたのだろう。親身になって教えてくれる姿にはいつも大らかさを感じる。いい先生に巡り会えたものだ。
 俗世界から超然として生活されている先生に触発され、私は自信を持って養蜂を本格化させようと考えている。
 家の庭や畑の上空をミツバチが飛翔していく光景は壮観だ。あんな小さい体でどこまで飛んでいくのだろうか。2キロ先までミツを求めていくと聞く。そうするとこの辺ではミツバチを飼っている人はいないので、私は4キロ四方の排他的蜜源地域を所有していることになるのだ。心豊かになる一瞬である。