トップページへ仙台藩最後のお姫さまみちのくの文学風土
みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
みちのくの入り口福島−その2−
2002年6月8日


 磐梯山の麓の東山温泉(会津若松市)は、『旅愁』『夜の靴』『微笑』で知られる横光利一の出身地です。横光は川端康成らと『文芸時代』を発刊しました。新しい時代感覚を強調したこの新進作家らを、山形県出身の評論家千葉亀雄は「新感覚派」と命名しました。右方には、鬼女伝説で知られる安達が原があります。
 福島県の中心に位置する郡山市は、明治初期猪苗代湖の水を利用して郡山盆地の開発を目指した安積疎水の建設が企画され、全国から開拓者が多数入り込みました。この開拓時代に生まれたのが宮本百合子、久米正雄です。百合子は少女時代久米正雄に恋心を抱き、何通かの恋文を送っています。二人の祖父は旧米沢藩士で、安積疎水の開拓の命を受け郡山に赴任しました。米沢と会津は戊辰戦争時ともに薩長と戦いますが、米沢はのちに官軍に付いた関係で、安積開拓では会津藩土が貧しいなかで荒地を耕し、米択藩士が馬にまたがって見回るという関係で、純粋な人にはこの光景は大きな衝撃でした。百合子の代表作『貧しき人々の群』は開拓に失敗し小作人に転落した人びとを描いたものです。久米正雄は、三汀(さんてい)と号し句作にも活躍しましたが、菊池寛、芥川竜之介らと第三次・第四次の『新思潮』を起こしました。戯曲『牛乳屋の兄弟』、小説『破船』、そして『阿武隈心中』『三浦製紙工場主』では、ここを舞台に不況時代の農村や女工哀史を描きました。
 さらに北上すると、二本松、福島に近づきます。二本松は会津若松の白虎隊と同様、二本松少年隊が奮戦し多くの少年が露と消えた悲劇の歴史を秘めた場所です。また、霞ヶ城には五代藩主丹羽高寛が藩士の戒めとして刻ませた戒石銘碑があります。「爾の俸、爾の禄は、民の膏、民の脂なり。下民は虐げ易きも、上天は欺き難し」と記され、この教えは、長く二本松藩の藩風を培いました。高村光太郎の『智恵子抄』で知られる智恵子は二本松に隣接する安達町で生まれました。
 福島市山口には、文知摺観音があり、境内には平安初期の歌人源融と土地の長者の娘との悲恋を伝える文知摺石があります。境内には芭蕉の句碑があります。

 ・早苗とる手もとや昔しのぶ摺      芭 蕉 

 福島市外の南方には、標高143メートルの椿山があります。大正のはじめ福島を訪れた森鴎外は、椿館に登り、厨子王の産湯を捨てたといわれる岩や、親子の暗い運命に耳を傾けながら『山淑太夫』の構想を描きました。森鴎外は、島根県津和野生まれで東大医科出身で、文芸にも造詣が深く、『しがらみ草紙』を創刊しました。その傍ら西欧文学の紹介・翻訳、批評を行い明治文壇の重鎮でした。『舞姫』『阿部一族』の著書や、『即興詩人』『ファウスト』などで知られます。
 福島県は明治10年代、自由民権運動の盛んなところで、その中心人物は三春藩出身の河野広中で、ときの県令三島通庸はこれを徹底的に弾圧しました。円地文子の『女坂』は、この三島の下で大書記官として辣腕を振るった白川行友の妻倫子の忍従の生涯を描いたものです。福島市の北東伊達郡霊山は南北朝時代、南朝の重臣北畠顕家が義良親王を奉じて戦った場所です。
 目を海岸に転じると広い面積を誇るいわき市です。「蛙」「富士山」の詩で知られる草野心平の出身地です。いわき市の入り口が「勿来関(なこそのせき)」ですが、いわき市から相馬市にかけての海岸一帯には映画「喜びも悲しみも幾年月」で知られる塩屋崎灯台や比多潟、二つ沼、松ヶ浦など万葉の時代から知られた景勝地が数多く残され、秀歌、秀句をとどめています。

 ・吹く風を勿来の関と思へども道もせに散る山桜かな  源義家
 ・葉桜の勿来を北へ旅の汽車    石塚 友二