トップページへ仙台藩最後のお姫さまみちのくの文学風土
みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
学都仙台を育んだ宮城の風土−その1−
2002年6月15日


 新幹線に乗って宮城に入ると、左方にひときわ高い山並みが見えてきます。

 ・みちのくの阿武隈川のあなたにや
     人忘れずの山はさかしき   古今和歌六帖

で知られる不忘山をはじめとする蔵王の山々です。連峰の麓には白石の町が広がつています。斎川には義経に忠節を尽くして死んだ佐藤継信・忠信の妻たちが、年老いた母のために甲冑姿になって慰めたという甲冑堂があります。甲冑堂の側には、芭蕉三回忌を期して「おくの細道」追慕の旅をして『陸奥鵆』を書いた桃隣の句碑があります。

 ・軍(いくさ)めく二人の嫁や花あやめ 桃 隣
 ・医王寺の門前に聞く初蛙       原田 青児

 白石は伊達家の重臣片倉家の城下町として栄えたところです。往時冬の農家の副業として和紙漉き農家は三百軒余りもあり、町には材料の楮市や紙市が立って賑わっていました。白石和紙は丈夫なうえにふくよかで美しく、その特徴を生かして紙衣や紙布織が作られました。ことに紙衣は麻など粗い織物を着ていた時代には、防寒着として庶民に愛用され「奥州白石紙子」として知られました。軽くて安価で持ち運びが良いため旅に生きた芭蕉も『奥の細遣』のなかで「…紙子一衣は夜の防ぎ…」と記しています。白石城跡には芭蕉の句碑があります。

 ・陽炎の我が肩にある紙衣哉      芭蕉

 蔵王町宮には刈田嶺神杜があり白鳥大明神縁起が伝えられています。景行天皇の御代に蝦夷征伐に下った日本武尊が、土地の深谷郷の領民を荒夷(あらえびす)から救った事で土地の長者の娘を妻に迎え平和に暮らしていましたが、尊はやがて都に戻ることになりました。あとに残った娘は遠い都に思いを馳せ、「私たちは二羽の白鳥となって尊のおられる大和に飛んでいこう」と尊とのあいだに生まれた子供とともに激流に身を投げ込みました。するとたちまち二羽の白鳥になって都を目指して飛び去っていきました。娘が尊の子供と身投げした川を児捨川と呼んでいますが、この辺一帯は白鳥にまつわる伝説が数多く伝えられています。
 新幹線がさらに進むと柴田町に入ります。山本周五郎の『樅の木は残った』で知られる原田甲斐のゆかりの船岡城のあった場所です。伊達騒動は、二歳で襲封した四代藩主綱村(幼名亀千代)のとき起こった藩内の権力闘争で、四代将軍家綱の後見役会津藩主保科正之の働きで災いは藩主にまでおよばず伊達家安泰がはかられました。歌舞伎『銘木先代萩』としても知られています。