トップページへ仙台藩最後のお姫さまみちのくの文学風土
みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
まほろばの国山形−その1−
2002年7月13日


 出羽三山羽黒山は現世の仏の観音浄土なので、ここで娑婆安穏の加護を祈り、後生極楽往生の修行をし、その修行の効力によつて娑婆の関を越え、生死の海を渡って月山の極楽浄土へ往き阿弥陀如来の妙法を聞く。その効力で苦域の関を渡り、寂光浄土・大日法身の地である湯殿山に入る。出羽三山を歩くことは、羽黒山ー月山ー湯殿山という空間を移動するだけでなく、現在ー過去ー未来という逆転した時間をも同時に旅することで、羽黒修験ではこれを「三関三渡」といいます。出羽路を旅した芭蕉は、趣深い紀行文、秀句をとどめ後人に大きな影響を与えています。

 ・涼しさやほの三か月の羽黒山  芭 蕉
 ・湯殿山銭ふむ道の泪かな        曽 良

 歌人斎藤茂吉(1882〜1953)は、上山市の農家の三男に生まれました。蔵王山麓にある純農村地帯であり町に出るには馬か徒歩で峠越えをしなければなりません。茂吉は十五歳の時、青雲の志を胸に山形・宮城県境の関山峠を一日がかりで徒歩で越え、仙台から汽車で上京、浅草にある同郷の医家の養いをうけ勉学を始めました。東大医科を出た後、長崎医専教授としてヨーロッパに留学したあと青山脳病院長などを歴任しました。正岡子規の弟子で『馬酔木』『アララギ』などを発刊、子規の写生主義を強調した歌人で小説『野菊の墓』で知られる伊藤左千夫に師事しました。雑誌『アララギ』を編集し、『赤光』や『あらたま』を始めとする歌集や『柿本人麿』などの随筆や評論を残しました。故郷をこよなく愛し芭蕉を敬愛し、その跡を訪ね歩き多くの秀歌を残しました。

 ・陸奥をふたわけざまに聳えたまふ
       蔵王の山の雲の中に立つ         茂 吉

 結城哀草果(1893〜1965)は、山形市に生まれました。斎藤茂吉に教えを乞い「アララギ」会員として農業に従事しながら純情で素朴な写生歌、健康な生活歌を詠み続けました。

 ・百姓のわれにしあれば吾よりも 
      働く妻をわれはもちたり            哀草果

 真壁仁は、農村の生活と風土を題材とした詩を作り続けるとともに、蔵王・最上川の血に繋がるふるさとを通して『人間茂吉』『斎藤茂吉の風土』を著述し茂吉の詩と人間に迫りました。正岡子規(1867〜1902)は1893年(明治26)『奥の細道』を辿り、作並温泉から大石田に入り、最上川を船で下り『はて知らずの記』をとどめました。

 ・ずんずんと夏を流すや最上川

 最上川とこの周辺を題材とした作品も数多く残されています。志賀直哉の『山形』、阿部次郎の『最上川』、旧制山形高校に学んだ亀井勝一郎、神保光太郎、阪本越朗らの詩や散文、安齋徹の「樹氷」、後藤紀一の「少年の橋」などが知られています。竹村俊郎(1896〜1944)は村山市出身で、萩原朔太郎、室生犀星と知り合い「感情」の同人として詩作を始め1939年(昭和14)帰郷、大倉村村長を務めながら、郷里の山河を瑞々しく謳い上げました。萩原朔太郎は、口語自由詩を芸術的に完成して新風を樹立、詩集『月に吠える』『青猫』などを発表しました。室生犀星は、叙情的詩人で野性的な人間追求と感覚的描写の小説家で『藍の詩集』『幼年時代』『杏つ子』などで知られています。俊郎のこよなく愛した蔵王や出羽三山、飯豊の山々は今も私たちに、さまざまな思いを抱かせてくれます。

 ・五月雨を集めて早し最上川      芭  蕉