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みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
まほろばの国山形−その2−
2002年7月20日


 酒田は、江戸初期に河村瑞賢(1618〜99)によって日本海を南下して下関、大坂、江戸に至る西廻航路を通してはかりしれない経済的な恵みを受けた場所でもあります。上方からは本綿・繰綿・古物などの衣料品、砂糖・塩・油などの食料品がもたらされ、上方へは米、紅花、青苧、煙草などを送った拠点となった場所で、蔵宿、蔵元商人達が活発に商いをして栄えた場所であります。なかでも二木屋、鐙屋のちの日本一の地主になる本間家が有名で井原西鶴の『日本永代蔵』には、「ここに坂田の町に、鐙屋といへる大問屋住みけるが、昔はわずかなる人宿せしに、其身才覚にて、近年次第に家栄え、諸国の客引請、北の国一番の米の買入、惣左衛門といふ名を知らざるはなし。表口三十六間裏行六十五間を、家蔵に立つづけ、台所の有様、目を覚ましける」と描かれています。
 森敦(1912〜89)は、旧制第一高等学校を中退して文学を志し、横光利一に師事し、利一夫妻の媒酌によって山形県の旧家の女性と結婚、山形に縁を持つようになりました。1951年(昭和26)から翌年にかけて、即身仏が安置してある朝日村の注連寺に身を置き、雪深い厳しい冬を体験しています。このときの体験をもとに書かれたのが『月山』です。
 鶴岡市は、中田義直作曲「雪のふる町」で知られていますが、ここからは『滝口入道』の著者で知られる高山樗牛、丸山才一、藤沢周平らを輩出するとともに、多くの文人墨客も訪れました。何度も庄内を訪れた横光利一は「私は山形県の庄内平野に這入ってきたとき、ああここが一番日本らしい風景だと思つた。この平野の羽前水沢駅といふ札の立った最初の寒駅に汽車が停車したとき、私は涙が流れんばかり稲の穂波の美しさに感激して深呼吸をしたのを覚えている」と庄内の印象を記しています。
 安部次郎(1883〜1959)は松山町出身で、『吾が輩は猫である』『坊っちゃん』『それから』「虞美人草」で知られる夏目漱石に師事し、反自然主義の文芸評論を発表。『三太郎の日記』『人格主義』で個人主義的理想主義・感情移入を説き、青年たちに大きな夢と希望を与えました。次郎は「私という人間をつくりあげてくれた最初の師は何をおいてもまずこの故郷の風土である」と語っていますが、風土には外見だけでははかり知ることのできない懐の深い人生の糧が隠されています。
 米択市は,危機にある藩財政を立て直した上杉鷹山(1751〜1822)で知られる城下町です。「愛民」を政治理念として藩財政の再建に乗り出した鷹山の苦心によって藩財政は立ち直り、米沢織や笹野一刀彫、相良人形などが今に伝えられています。米沢北方の高畠町は、まほろばの里として知られています。まほろばとは美しい土地をさすことばです。古代からの遺跡が数多く残され、またお伽噺から近代文学としての童話への道を開き、日本のアンデルセンといわれる浜田広介のふるさとでもあります。広介は、『むく鳥の夢』『泣いた赤鬼』『りゅうの目のなみだ』などの著作を残しました。

 ・置賜は国のまほろば菜種咲き
      若薬しげりて雪山も見ゆ  哀草果