トップページへ仙台藩最後のお姫さまみちのくの文学風土
みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
本州の最果て青森−その2−
2002年8月17日


 今官一は、早大高等学院を経て露文科に学びました。在学中プロレタリア映画同盟に加盟。同人雑誌『文学ABC』『海豹』『青い花』を創刊、「日本浪漫派」系の作家として詩情豊かな作風を示しました。1944年(昭和19)応召、レイテ沖海戦に参加しました。1956年(昭和31)芸術社から出版した『壁の花』で直木賞を受賞、異才を認められながら華やかな脚光を浴びることなく世を去りました。
 秋田雨雀(1883〜1962)は、黒石市で生まれ、早稲田大学卒業後、小山内薫の『新思潮』の編集をやり、島村抱月・松井須磨子の芸術座に参加しました。戯曲集『埋もれた春』『国境の夜』詩集『黎明』などがあり、晩年は俳優の養成に力を尽くしました。
 太宰治(1909〜48)は、金木銀行を擁する大地主津島家に生まれました。青森市で中学時代を、弘前で高校時代を過ごしました。東京帝国大学在学中共産主義の非合法活動に従事し、脱落後、鎌倉の海で自殺を図りました。遺書のつもりで書いた「思い出」などを含む処女作品群『晩年』でデビューし、玉川上水に投身自殺するまで、四回自殺を図り、睡眠薬中毒、精神病院入院、結核など波瀾に満ちた短い生涯を送りました。いっさいの権威に対する激しい反逆と、弱い人びとの味方として愛と真実を求める精神に貫かれ、多くの熱狂的愛読者を得ました。『斜陽』、『人間失格』などで知られています。
 佐藤紅緑(1874〜1949)は、旧津軽藩の漢学者の家に生まれました。弘前中学を中退上京し、新聞「日本」の社主の陸羯南の書生となり、後に正岡子規に師事しました。『少年倶楽部』に連載した、「ああ玉杯に花うけて」で人気作家となり、真山青果や福士幸次郎など後進に大きな影響を与えました。サトウハチローは紅緑の長男、佐藤愛子は異母妹です。
 弘前から望む秀峰岩木山は、古くから詩歌に謳われてきた秀峰です。1925年(大正14)与謝野鉄幹とともに弘前を訪れた与謝野晶子は、

 ・みやびかに岩木の山の紫に似るそで振る津軽の獅子は      

 と詠んでいます。
 県西部の日本海に面した十三湖岸は、中世の頃は岩木川河口が造った天然の良好十三湊として繁栄し、江戸時代には米や木材の積出し港・十三湊として賑わいましたが、今は荒涼とした砂丘が目立ち、わずかに名所、旧跡に往時を偲ぶ事ができるだけです。

 ・風と来て声よき十三の蜆(しじみ)売  成田 千空

 明治の文学者大町桂月(1869〜1925)は高知県出身で、十和田湖と奥入瀬をこよなく愛し、これらを世に知らせた一人で、八甲田山南麓の蔦温泉に余材庵を構え、愛惜の地で生涯を終えました。十和田には、1953年(昭和26)『智恵子抄』で名高い高村光太郎の「湖畔のおとめ」像が立っています。このようなロマンと伝説を秘めた十和田湖そして奥入瀬渓谷は、いまも多くの人びとが絶えることなく訪れています。

 ・面つゝむ津軽をとめや花林檎   高浜 虚子
 ・みちのくの淋代の浜若布寄す   山口 青邨