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みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
羽州街道・その1(桑折〜山寺)
2002年9月28日


 羽州街道は奥州街道の福島県桑折から山中七ヶ宿街道を通り、山形県上山・山形・新庄、横手・久保田(秋田市)、大館、青森県弘前を経て、青森湊の前身である油川宿で奥州街道に合する街道です。福島から米沢に至る標高七五五メートルの板谷峠は急峻なため、奥羽山脈を越える経路として桑折から上山に至る七ヶ宿街道が利用されました。羽州街道は、峠越えが多く、山形・秋田県境の雄勝峠、秋田・青森県境の矢立峠を経て弘前城下から油川に至る街道です。上山以北は現在の国道七号・一三号にほぼ相当する街道です。

 桑折は近世、半田銀山や養蚕で栄え桑折宿は大変潤いました。桑折宿を後に石畳の坂を上ると標高四四一メートルの小坂峠に差しかかります。峠からは阿武隈川によって涵養された信達盆地や阿武隈の山々が眺望できます。

 峠を越えると仙台領です。上戸沢の藩境番所を過ぎると上戸沢、下戸沢、渡瀬、関、滑津、峠田、湯原と七つの宿が長い街道に続きます。山中七ヶ宿街道で、出羽十三家の大名がこの街道を通って江戸を往復しました。置賜屋代郷には三万石の天領があり、江戸への輸送はこの街道の駄送と川と海の水運によりました。駄送は、各宿にとっては大きな負担でしたが、年間二千人を越す関東方面からの出羽三山参詣の白装束の道者がこれを補いました。湯原(宮城県七ヶ宿町)の追分石には、「右ハもがみ街道、左ハ米沢街道」と刻まれていました。

 藩境の金山峠を越え急峻な坂道を下ると山麓に楢下宿(山形県上山市)があります。楢下宿は金山川と須川の合流点に位置し、(一六五六年(明暦二)羽州街道改修後、参勤交代の宿駅として発達、本陣、脇本陣のほか各藩の定宿である庄内屋・秋田屋などがありましたが今に残る脇本陣が往時の面影を今に伝えています。また明治初期に県令三島通庸が架けた眼鏡石橋があります。

 上山宿は温泉のある宿として知られていましたが、大正時代には新湯が発掘され、いまは上山温泉郷として蔵王観光の基地となっています。市内には、斎藤茂吉の作品や生活を伝える自筆の原稿、色紙、書簡等を収蔵展示する斎藤茂吉記念館、上山に配流された沢庵禅師(一五七三〜一六四五)の庵を復元した県史跡の春雨庵があります。
 沢庵禅師は江戸初期の臨済宗の僧でしたが、諸大名の招請を断り大徳寺や堺の南宗寺等に歴住していましたが、一六二七年(寛永四)将軍家光のとき、皇室から賜った紫衣を幕府が法規を楯に奪い、幕府に従わない妙心寺の単伝・東源、大徳寺の沢庵・玉室らを処分した紫衣事件に連座して出羽に流されました。五年後許されてのち帰洛し、徳川家光の帰依を受けて品川に東海寺を開きました。書画・俳諧・茶に通じ、その書は茶道で珍重されています。

 上山城下から酢川の西側を北上し間宿黒沢・松原宿を経て山形城下に入ります。
 山形の町は紅花市で栄えた城下町として知られていますが、江戸初期最上氏五十七万石が改易されてから幕末まで、城主が十二回も替わり、交替のたびに藩領が縮小され、幕末は水野氏五万石の城下町でした。幕末の志士清川八郎は山形城下の印象を「町の長き事、おおよそ二里にも及ばん、格別横町もあらず。されば商人の盛んなる所にて、万事に不自由のなき城地なり」と『西遊草』に記しています。

 旅籠町はその名のとおり大名の本陣・脇本陣のほか旅籠屋が並び紅花など上方などの商取引が盛んでした。市内には、全山凝灰岩の風化した奇石怪石に囲まれている立石寺があります。立石寺は比叡山延暦寺(滋賀県)の法燈を受け継ぐ羽州随一の霊場として民間の信仰を集め訪れる人も多く、秀歌、秀句をとどめています。

  閑さや岩にしみ入蝉の声  芭蕉