トップページへ仙台藩最後のお姫さまみちのくの文学風土
みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
峠・その1(勢至堂峠・木ノ根峠)
2002年10月26日


 みちのくの山々は、神宿る山であり雲の生まれるところであり、また水を涵養し、豊かな幸を私たちにもたらしてきました。
 山の彼方には、見知らぬ豊かな世界が広がり、古くから人々は山の彼方にあこがれてきました。いつの時代も、人々は山を越えようとしました。物資の輸送や信仰、さらに戦争のため山を切り拓き、道を取り付けてきました。こういう営々とした営みの中で「峠」が誕生したのです。峠という字は漢字ではなく、「山の国」日本人の感性がつくりあげた会意文字です。

 峠を越えることは未知への旅立ちであり、自分と家族や故郷との別離を意味し、常に危険に隣り合わせであり、無限の可能性へ向けての第一歩でもありました。
 峠には、もののけが潜み人に災いをもたらすと信じられ、峠を通過する際には、峠の神に小枝や着物の袖、花などを捧げ、行路の安全を祈りました。

  周防なる磐国山を越えむ日は手向けよくせよ荒しその道
                         『万葉集』
  大釈迦峠淡雪とけて鳥かへる    新谷ひろし
  来し方の一首の坂の木の葉雨    菅原野火男

 峠に立つと、今までとは違った景色や風に出会うことがあります。峠を越えることは見知らぬ国へ足を踏み入れることであり、これまでの自分や家族などさまざまなしがらみから自らを解き放すことであり、その新鮮な衝撃によって「心の転折」を得る場でもありました。みちのくの峠のいくつかを辿ってみたいと思います。

 勢至堂峠は、会津若松と白河を結ぶ白河街道(福島県)にあった峠です。白河街道は太閤秀吉が会津入りする際に伊達政宗に命じて整備させたもので、江戸時代には佐渡産出の金が運ばれた重要な公道でした。峠の周辺には会津と白河の藩境碑や土塁跡、磯貝権四郎家に代々営ませた助小屋を兼ねた権四郎茶屋跡などがあります。

  峡紅葉会津芸者は性こはく     山口 青邨
  霜くすべ土湯峠を下り来れば    阿波野青畝

 木ノ根峠は、奥会津と越後を結ぶ八十里越街道にある峠です。八十里越の由来は奥会津と越後を結ぶ八里(31キロ)の山道が十倍もの距離に感じることから生まれたといわれ、屏風のような越後山塊の中に築かれた街道で領地支配や交易の道として重要視されました。1180年(治承4)の高倉宮以仁王の逃避行伝説や長尾景虎(上杉謙信)の栃尾入り、幕末長岡藩の河井継之助の会津入りなどで知られています。天明の大凶作の年に、越後の米が大量に会津に運ばれ、また会津からは越後縮の原料である苧麻などが移出された道であり、日本海沿岸からは塩の道としての役割を果たした道です。

  まんさくや峠の水の音をなす    皆川 盤水
  峠の碑空へ傾き蟻地獄       及川 檐溜