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みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
峠・その2(鞍掛峠・小坂峠)
2002年11月2日


 鞍掛峠は木ノ根峠から北西に四キロほど離れた烏帽子山(1350メートル)の東麓にある標高952メートルの峠です、北に越後平野の一端が俯瞰されます。ここで三千人から五千人ともいわれる長岡藩の人々とともに、この峠を越えた河井継之助について説明しておきます。

 河井継之助(1827〜68)は幕末から明治初期、長岡藩の執政を担い開明派で窮乏していた藩財政の建て直しに成功、洋式のアームストロング砲などを購入して、フランス式の訓練を行なって士気を鼓舞、勤皇・佐幕の両派の間に入って、現実に即した中立路線を模索しました。しかし、志と異なり薩長の侵攻を受け、長岡城は猛火に包まれて落城、継之助は栃尾に退き態勢を立て直し各地で奮戦、大雨洪水をおかして、夜半の不意を急襲して翌朝長岡城を奪還しました。

山県狂介(有朋)、西園寺公望はいったん退去しました。山県の「敵まもる砦の篝かげふけて夏も身にしむ越の山風」の歌はこの時の作といわれます。この戦いで継之助は左脚膝下に銃弾を受けて重症を負いました。こうした中で長岡城は政府軍の猛攻を受けて、継之助の指揮を失い再び陥落しました。継之助は戸板に乗せられ八十里越で会津に向かい、先に会津に行った藩公牧野忠訓から幕府の侍医松本良順の差遣診療を受けましたが、会津領塩沢(福島県南会津郡只見町)で死去、42歳でした。

後年、政府軍の軍監として指揮にあたった岩村精一郎はみずからを顧みて、「西郷隆盛ほどの年齢に達し、彼ほどの度量があれば、長岡戦争は避けられたであろう」と述懐しました。長岡藩の人びとはどのような思いで、故郷の山河を望んだことでしょうか。これは司馬遼太郎の小説『峠』の題材として扱われています。

 小坂峠(福島県・宮城県)は、桑折(福島県伊達郡桑折町)で奥州街道から分岐した羽州街道の最初の難所です。ここは七ヶ宿街道ともいわれ、旧仙台藩側(宮城県)には上戸沢、下戸沢、渡瀬、関、滑津、峠田、湯原の七つの宿場があり、出羽13大名の参勤交代路、出羽三山詣での旅人の往還路でもありました。

峠からは、国見町の町並みが見え、ここは420年前伊達政宗夫人愛姫が、輿入のとき通った街道でもあります。愛姫は12歳の12月に三春城で両親に別れを告げ輿に乗り、まだ見ぬ異国へ旅立ちました。梁川でお輿の受け渡しがあり、田村家の家臣向館内匠が水晶の数珠を取り出して、「この水晶のようなる子をもって」と祝うと、伊達家の家臣遠藤基信は、「末繁昌と祈るこの数珠」と返し、両家の末永い繁栄をそれに託したといわれます。標高755メートルの板谷峠は雪が深くて通れず、標高441メートルの小坂峠から見る山野に愛姫は、何を思い何を語りかけたのでしょうか。愛姫は再び故郷の山河を見ることはありませんでした。

  科の木や葉月ぐもりの峠茶屋     佐藤 鬼房