トップページへ仙台藩最後のお姫さまみちのくの文学風土
みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
峠・その8(矢立峠)
2002年12月14日


 矢立峠は、羽州街道秋田と津軽境にあり、藩政期から明治にかけて多くの旅人が足跡を刻み、さまざまな物語をとどめました。

 江戸後期の勤王家で寛政の三奇人の一人といわれた高山彦九郎はその紀行文『北行日記』には、峠ふもとの陣屋から四十八川と称する川を幾度も渡り、一丁ばかりで坂にかかる横木を足掛かりとし峠に登ったと記しています。そして峠には大きな杉が一本囲いの中にあって、それが矢立の杉で藩の境であると記しています。このほかにも古川古松軒、吉田松陰、イサベラ・バードなどが記録をとどめています。吉田松陰は「天絶険をもって二邦を隔つ」と記しています。

 英国の著名な世界的な冒険家イサベラ・バード(1831〜1904)は『日本奥地紀行』で、「私は日本で今までみたどの峠よりもこの峠を誉め讃えたい。光り輝く青空の下であるならば、もう一度この峠を見たいとさえ思う。この峠はアルプス山中のブルーニッヒ峠の最もすばらしいところとだいぶ似ており 、ロッキー山脈の中のいくつかの峠を思わせる所がある。

しかしいずれにもまさって樹木がすばらしい。孤独で、堂々としており、うす暗く厳かである。その巨大な杉は船のマストのように真っ直ぐにで、光を求めてはるか高くまで、その先端の枝を伸ばしている。薮になっているのは、湿って木陰の場所を好む羊歯類だけである。樹木はその香ばしい匂いをふんだんにあたり一面に漂わせ、多くの峡谷や凹地の深い日陰で、明るく輝く山間の急流は踊りながら流れ、そのとどろき響き渡る低音は、軽快な谷間の小川の音楽的な高音を消していた。…」と記しています。

矢立て峠は最果ての津軽への入り口でもありました。

  昴れる津軽三味線雪を呼ぶ    大原 路楓
  角巻を展げて雪を払ひをり    原田 青児

 このほかにも数多くある峠は、人々にさまざまな思いを抱かせてきました。身近な峠は、隣の村や町の日常生活の交流・交易の場として人々の生活に深いかかわりあいを有し、国境の峠は未知の国の出入り口でもあり、多くの旅人がそれぞれの思いを胸に抱きながら峠を越えたのです。故郷を後に峠を越えて再び戻ることなく、故郷に限りない思いを抱きながら異郷の土に化した人もいたことでしょう。

また、峠を越えてやってきた旅人が故郷に残してきた家族に思いを寄せながら、再び峠を越えることなく万感の思いを残しながら没したこともあったでしょう。その旅人を手厚く葬る村人の胸に去来したものは、人の命のはかなさ遺憾ともしがたい宿命についてであったでしょうか。

 イサベラ・バードは、1878年(明治11)7月宇津峠を越えて米沢に入りました。

 「私は、日光を浴びている山頂から、米沢の気高い平野を見下ろすことができて、嬉しかった。米沢平野(置賜盆地)は、長さ約30マイル、10ないし18マイルの幅があり、日本のアルカディヤ(桃源郷)である」と絶唱しています。彼女は、宇津峠を越えたことにより、心の「転折」を得たのです。

 このような峠も、新しい道が、トンネルが掘られることによりその存在意義を失い過去のものとなりつつあります。しかし峠は、それぞれの時代、さまざまな歴史を積み重ねかたちつくられてきたものなのです。

 峠は、これからもその時代時代にふさわしく装いを新たにしながら、私たちに限りない希望と心の転折を与え続けてくれるのではないでしょうか。