トップページへ仙台藩最後のお姫さまみちのくの文学風土
みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
歌枕・俳枕を行くー岩手2(盛岡・渋民・遠野)
2003年11月20日


  
 北上川、中津川、雫石川によって育まれた県都盛岡は、南部氏20万石の城下町で、もと不来方(こずかた)といいましたが、藩主が森岡と改称し、さらに盛岡と改められました。岩手山を望み、山々と清らかな川の流れが落ち着いた景観からこの町は、小京都ともいわれています。石川啄木は盛岡高等小学校から、県立盛岡中学校に入学し文学に目覚め、同校中退後上京して新詩社に入会しました。1905年(明治38)盛岡に帰って結婚、一時期を盛岡で過ごしました。啄木の学んだ旧制盛岡中学校は、城の下にあり、少年啄木はたびたび教室を抜け出して、この城の草に寝転びながら未来への夢を膨らませていきました。いまもこの北国の空は、限りなく澄んでいます。
  不来方のお城の草に寝ころびて
        空に吸われし十五の心   石川 啄木
  片富士の片そぎや雪の峯つづき  河東碧梧桐
 厨(くりや)川は、源頼義・義家父子が奥羽地方の豪族安倍頼時とその子貞任・宗任らを討伐し、源氏が東国に強い絆を築く大きな契機となった前九年の役(1051〜62)で知られています。安倍氏が拠った厨川柵のあった場所で、嫗戸・黒沢尻・鳥海・衣川・小松などとともに、北上川流域の安倍氏の拠点の1つです。柵は北上川と雫石川の合流点、現盛岡市の大館および里館とする説が有力です。出羽清原氏が頼義方にまわってから利あらず、貞任は本拠の厨川柵で敗死しました。
  貞任が乱せる糸や厨川  如 筑
  見おろせば六月寒し厨川     津 富
 岩手山と姫神山の中間にある玉山村渋民(旧渋民村)は、石川啄木の郷里として知られています。啄木は1886年(明治19)渋民より南東15キロの南岩手郡日戸村に生まれました。翌年渋民に移住し、尋常小学校に学び、のち同校の代用教員となり、一時期を盛岡、東京で過ごし、1907年(明治40)北海道に渡って漂泊生活を続け、1912年(明治45)不遇のうちに東京で没しました。渋民には、啄木の書簡、遺品や文献を展示した石川啄木記念館、隣には幼少時代を過ごした宝徳寺、教鞭をとった旧渋民尋常小学校校などがあります。
  かにかくに渋民村は恋しかり
         おもひでの山おもひでの川  石川啄木
  遠野路のこんせい様に葛の花  松崎鉄之介
 花巻と釜石を結ぶ釜石線の中間遠野は、現在の遠野市土淵出身の佐々木喜善が語り、柳田国男が収録した『遠野物語』で知られる民話の里で、日本人の心の原風景が保たれているような土地柄です。山や川、草木のすべてが会話をし、人も鳥も獣もすべてが自然界の仲間として、生き生きとした関わり合いを今に伝えてくれるような場所です。秀峰早池峰を遠く望み、南部曲家も散見される語り部の里で、多くの人びとの郷愁を誘ってくれる場所です。
  天くもの遠野のさともゆめに見えず
      春の夜風の松のみに吹く 柳田 国男
  曲り屋の石垣に穴恋の蟇
    和知 喜八