トップページへ仙台藩最後のお姫さまみちのくの文学風土
みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
歌枕・俳枕を行くー岩手3(花巻・厨川・衣川・平泉)
2003年11月21日


  
 花巻は奥州街道の宿駅として南部一門2万石の城下町,温泉地として知られています。
花巻で生まれた宮沢賢治は、岩手県を「イーハトーヴ」と称し一つの理想郷と見立て、東北の豊かな風土に科学と宗教を加味して、詩や童話に優れた作品を生みました。
また、第二次大戦後7年間隠棲して農耕自炊の生活を続けた高村光太郎は、詩集『典型』を発表しました。賢治が農民講座を開いた羅須地人教会(花巻農業高校敷地内に保存)、イギリス海岸、宮沢賢治記念館、高村記念館などに2人の面影を偲ぶことができます。
  こぶしの咲き きれぎれに雲のとぶ
    この巨きななまこ山のはてに 紅い一つの擦り傷がある
    それがわたくしも花壇をつくってゐる
  花巻温泉の遊園地なのだ     宮沢賢治」
  光太郎小屋にかざして遅桜    細見綾子
   衣川は、胆沢郡衣川村の北縁を西流し、平泉町中尊寺の東北部で北上に注ぐ川で、前九年の役の大きな戦の1つである衣川の戦いは、衣川館をめぐって繰り広げられました。村名のいわれは、標高927メートルの高檜能(王)山に、天女が舞い降りて天の羽衣を乾かしたという伝説にちなむものです。
 近くにおかれた「衣の関」は、奥州古関の一つです。
 『後撰和歌集』の「直路(ただち)とも頼まざらなん身にちかき衣の関もありというなり」(よみ人しらず)が最古の例で、身に付ける衣を名にもつところから都の歌人の憧れを誘ったといわれています。
源重之の「衣川みなれし人の別るればたもとまでにぞ波は寄せける」(重之集)のように、「身馴れ」「袂」など衣に関する掛詞や縁語の修辞技巧を多用する恋歌に詠まれ、合流点北側が衣川柵跡です。
  桜色に四方の山風染めてけり
           衣の関の春の明ぼの 藤原定家
  雨の洲の卯の花かなし衣川     水原秋櫻子
  小豆干して貧しくかなし平泉    原田 青児
  野火消えて月を上げたる衣川    菅原野火男
   平泉は、栄華を極めた藤原三代の本拠地で、藤原氏は辺境の地をはじめて統一、中央に一歩も引けを取らぬ皆金色の文化を花開かせました。蓬莱神仙思想に基ずく浄土観の毛越寺庭園、平泉館の伽羅(きゃら)の御所、源義経居館の高館や柳の御所などの名に往時を偲ぶことができます。そばに聳える束稲(たばしね)山は山河に繰り広げられてきた武将たちの栄枯盛衰を見てきたのです。これら諸行無常の歴史を秘めたこの地は、『義経記』巻第7、『今昔物語集』巻第5、『古今著聞集』巻9、謡曲『秀衡』『船橋』『錦戸』、幸若舞『高館』、御伽草子『秀衡入』、絵巻『義経東下り』の舞台でもあります。
  涙をば衣川にぞ流しつる
       古き都を思ひ出でつつ 西 行
  御所址の蝌蚪に遊べり平泉 遠藤 梧逸