トップページへ仙台藩最後のお姫さまみちのくの文学風土
みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
歌枕・俳枕を行くー青森1(青森〜八甲田)
2003年11月28日


  
 東北地方は古くは陸奥国(青森・岩手・宮城・福島)と出羽国(秋田・山形)の、二つの国に分かれていました。明治初期には、陸奥(青森)、陸中(岩手)、陸前(宮城)、岩代・岩城(福島)と羽前(山形)、羽後(秋田)の7つの国に分かれました。
青森県は、文字通りみちのくの涯でもあります。いまは1つの県ですが東部(南部地方)と西部(津軽地方)は、地形・気候の地域差もあります。津軽は藩政時代から新田開発が進められましたが、米がとれず血縁共同体の南部では、自然現象や生物などの言葉を中心に、民族、信仰、祭礼、風習などにも多くの違いを持っています。また、これと決めるととことんまでやる情っ張りや、自分ひとりでこっそりやるタイプの多い県民性もあるといわれています。
 甲斐の国から糠部〔ぬかのぶぐん)南部領〕に入り勢力を蓄えた「馬の領主」南部氏と、津軽地方を中心として北部日本海地域に勢力を展開した「海の領主」安東氏との抗争は、15世紀中頃まで続きました。その後、津軽の地を平定した津軽氏が、南部氏から津軽を獲得して統一政権によって領地を安定させたことにより、県内における近世権力を成立させました。
また、戊辰戦争における盛岡藩と弘前藩の野辺地戦争など不幸な事件もあり、これらを内包したまま青森県が成立、時の政権からは「難治県」とみなされましたが、反骨の気概の強かった気風は、さまざまな分野に個性的な人材を輩出してきました。
 青森は、青森平野の中央部に位置し、地名の由来は1年を通して松が青々と茂る青森山に由来するといわれています。善知鳥(うとう)村、蜆貝村などの漁村でしかなかった浜は、1625年(寛永2)からは、津軽の東・西廻り航路の起・終点として開港したことによって、物資の集散地として、港町・市場町として栄えました。
1871年(明治4)県庁が弘前から青森に移ってからは、県庁所在地として北海道開拓の進展により、1873年(明治6)函館ー青森間の定期航路の開始により、交通の要衝としても栄えました。石川啄木など多くの文学碑のある合浦公園、魚類・爬虫類を展示する浅虫水族館、八甲田山雪中行軍遭難資料館などの施設があります。
  高潮をむかへて漁港春さむし   飯田 蛇笏
  八甲田今は青嶺として聳てり   塩川 雄三
 八甲田山は、南と北の二つの連峰からなり、北八甲田山は標高1584メートルの八甲田大岳を主峰に10峰の火山、南八甲田は標高1516メートルの櫛ヵ峰を主峰とする8峰からなり、亜高山帯から高山帯にかけて多様な植生も見られます。モリアオガエルが生息する睡蓮沼では、水芭蕉、ワタスゲ、エゾヒツジグサなど、春から秋にかけて多くの植物が咲き競い、多くの人々の目を楽しませてくれます。
  観桜のぢぢばばの恋ふ恐山  大野 林火
  恐山五月の雪のましろなる  富安 風生