トップページへ仙台藩最後のお姫さまみちのくの文学風土
みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
歌枕・俳枕を行くー青森3(竜飛崎〜岩木山)
2003年12月5日


  
 津軽海峡に突き出た県北西部の津軽半島は、奥羽山脈の支脈で、北北西に伸びる4〜5〇〇メートルの山地が主要部で、山麓に顕著に発達する台地(段丘群)十三湖を含む津軽平野とその西方日本海側の砂丘地帯から成り立っています。海岸線は比較的単調で、東北部は山容で平地に乏しく、とくに竜飛崎付近は100メートルの海食崖です。
 外ケ浜は古くは「外の浜」と呼ばれ、青森市から平館村に至る津軽平野の陸奥湾沿岸の呼称で歌枕の地、善知鳥の伝説の地として知られています。義経伝説で知られる三厩(みんまや)、その先は本州の北端竜飛崎です。三厩は、平泉から逃れた義経がこの地から蝦夷地に渡る際、3頭の馬を繋いだとされる3つの岩穴をもつ厩石があり、村名の由来とされています。
  竜飛崎紺引くつるべ落しかな   阿部 慧月
  竜飛崎より西の余光を鴨わたる  阿波野青畝
 竜飛崎は津軽海峡を挟み20キロの距離に北海道白神岬と向かいあい、地名の由来は刀を意味するアイヌ語のタムパがタッピとなったといわれています。先端部は100メートルの急な海食崖をもって日本海に接し、崖下は奇岩、岩礁、海食洞などの男性的な海岸美を持っています。台地上には1932年(昭和7)に竜飛崎灯台が建ち、海峡を通る船舶の航行の安全を見守っています。太宰治は、1944年(昭和19)5月から6月にかけて、津軽地方を旅し、「人の心と人の心の触れ合い」と「津軽の現在生きている姿を」そのまま読者に伝えたいと、『津軽』を書き綴りました。その中で最北端の竜飛について、次のように記しました。
「ここが?」落ちついて見廻すと、鶏小舎と感じたのが、すなわち竜飛の部落なのである。凶暴の暴風に対して、小さい家々が、ひしとひとかたまりになって互いに庇護し合って立っているのである。ここは、本州の極地である。この部落を過ぎて路は無い。あとは海にころげ落ちるばかりだ。路が全く絶えているのである。ここは、本州の袋小路だ。(略)翌る朝、私は寝床の中で、童女のいい歌声を聞いた。せっせっせ 夏もちかづく 八十八夜…いまでも中央の人たちに蝦夷の地と思い込まれて軽蔑されている本州の北端で、このような美しい発音の爽やかな歌を聞こうとはおもわなかった。」(三 外ヶ浜)
  あら野来てさびしき町を過ぎしかば
        津軽の海は目に青く見ゆ 古泉 千樫
    竜飛顕ち渡島醒めるざる若布干し   文挟夫佐恵
 『津軽』は太宰の自伝ですが、津軽の旅は都会で乾いた心情を癒し、忘れえぬ人びととの再会の旅でもありました。久しぶりに津軽弁を話し、風土を愛で、故郷への限りない思いを込めて津軽人の心を語っています。「久し振りだなあ。…まさか、来てくれるとは思わなかった。小屋から出てお前の顔を見ても、わからなかった。修治だ、と言われて、あれ、と思ったら、それから口がきけなくなった。運動会も何も見えなくなった。30年ちかく、たけはお前に逢いたくて、逢えるかな、逢えないかな、とそればかり考えて暮らしていたのを…」(五 西海岸)。
 太宰は、日本海に臨む小泊で子守の越野たけと逢い、津軽の女のぬくもりを知り、「自身の心の原風景と再会」しました。そして「私は、この時はじめて、私の育ちの本質をはっきり知らされた。」と自然を舞台に郷土の人びとを讃歌したのです。
貝掘りに白鳥の来て十三湖   丸山 海道