トップページへ仙台藩最後のお姫さまみちのくの文学風土
みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
みちのく宮城に遊ぶー文化を守る心
2003年12月28日


  
 いまから50年前、昭和25年3月、平泉の藤原三代の遺体の学術調査が行われたおり、三代秀衡の枢の蓋(ふた)が開かれ初めて秀衡と対面したときの感動を作家の大仏次郎は、次のように記してます。
 「私は、義経の保護者だった人の顔を見守っていた。想像を駆使して、在りし日の姿を見ようと努めていたのである。高い鼻筋は幸いに残っている。額も広く秀でていて、秀衡法師と頼朝が書状に記した入道頭を、はっきりと見せている。下ぶくれの大きなマスクである。北方の王者にふさわしい威厳のある顔立と称してはばからない。牛若丸から元服したばかりの義経に、ほほ笑みもし、やさしく話しかけもした人の顔が、これであった。」
 さらに、この枢の底には金でできた豆粒ほどの小さな鈴がありました。その鈴を拾いあげて静かに振って音を聞いた感動を、当時の中尊寺の執事長は、のちにこう記しました。
 「黄金というには余りに可憐な金の小鈴、思わず呼吸をつめた私は、目を閉じ心意を一点に凝らして、静かに静かに振ってみた。小さく、貴く、得も言われぬ神秘の妙音。800年後の最初の音を聴き得た身の果報。それはまさしく大いなるものの愛情による天来の福音であった。連日続くあの騒擾(そうじょう)に、恐らくすでに爆発寸前の感情にあったろう私は、文化を護る道は、ただ"愛情"の二字に尽きることを、この瞬間に強く悟り得たのであった。」
 まさに文化や歴史を正しく継承しこれを次代にしっかりと引き継いでいくのは、何にもまして歴史や文化に対する尊敬と愛情というか、温かい心があってはじめて可能なのではないでしょうか。
 そういう目でそういう思いで、このみちのくの、この宮城の歴史と文化を振り返ったとき、何と素晴らしい歴史や文化が花開いていたことでしょうか。
 九百年前の歌人、源俊頼は、宮城のシンボルでもある宮城野原の美しさを通してみちのくの奥ゆかしさを絶唱し、
  さまざまに心ぞとむる宮城野の花のいろいろ虫のこゑごゑ
と千載和歌集に残しています。
 この和歌に詠われたように、美しく心豊かなみちのくの歴史と文化を皆さんとしばしの間、訪ねてみたいと思います。