トップページへ仙台藩最後のお姫さまみちのくの文学風土
みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
みちのく宮城に遊ぶー多賀城と北畠顕家
2004年1月1日


  
 宮城の歴史と文化を語るとき、それを創った二つけ大きな要素を忘れる訳にはいきません。一つは、今からおよそ1300年前、714年に「大王(おおきみ)の遠の朝延(みかど)」といわれた国府が、多賀城に設置されたことと、その前面に「塩竈の浦」、いわゆる松島という日本有数の景勝地があったことです。九州筑紫の太宰府が中国や朝鮮に対する備えと九州全域の政治、軍事の拠点であったのに対して、みちのくの多賀城は蝦夷(エミシ)に対する備えと、東北の政治軍事の拠点として、およそ600年間みちのくの都の置かれた場所であります。古代の多賀城のありようについては、東北歴史博物館や多賀城跡調査研究所により次第に明らかになりつつありますが、それでは一体いつの時点でどのような形で多賀城が消滅していったのかということになると、あまりよく知られてないのが実情です。
 いまからおよそ660年前の1334年、多賀の地に古代にもなかったような、大きな政治と軍事の組織がつくられました。その前年の1333年が、後醍醐天皇による「建武中興」の行われた年で、これによって150年続いた鎌倉幕府、いわゆる武士の世の中が終わり、再び、天皇親政の時代が取り戻されました。しかし建武の新政権はまだまだ政権の基盤が弱く、何か起こるに違いない、起こるとすればその発火点は幕府の所在地であった鎌倉であり関東であろうというのが当時の人々の共通の認識でした。そのため、みちのくの都多賀城に対する期待が大きく高まりました。後醍醐天皇の皇子(みこ)の義良(のりなが)親王、後の後村上天皇になられる皇子を陸奥の特別国司に奉戴をし、陸奥守兼鎮守府将軍には北畠顕家を、そしてその後見として顕家の父である北畠親房をつけて多賀城に入城させたのです。
 多賀城入城にあたっては、関東や鎌倉に在住していた武将をことごとく引き連れての入城であったため、関東は往時の面影もない寂れようであったといわれています。そして、北畠顕家らのもとで、まるで幕府のような強力な政治と軍事の組織がつくりあげられました。中先代(なかせんだい)の乱というのがありました。権力の座を失墜し鎌倉を追われた北条の残党北条時行が一時鎌倉を占拠した事件です。建武中興に大きな役割を果たした足利尊氏は、直ちに鎌倉に進駐、一撲を制圧し、自ら鎌倉に拠って後醍醐天皇に反旗を翻したのです。みちのくの多賀城の力量が試されるときがやってきたのです。北畠顕家はみちのく勢を多賀城に結集し各地で足利勢を打ち破りながら、夜を日に継いで東海道を西上し、名和長年、新田義貞、楠木正成らの諸勢と合流し、足利尊氏を撃破して九州の地に追いやったのです。北畠顕家のみちのく勢の声望は大いに高まりました。
 しかし、時の移ろいとともに足利尊氏率いる北朝勢は次第に力を盛り返し、多賀城は北朝勢の激しい攻撃にさらされるようになりました。このようななかで再び北畠顕家に足利尊氏追討の令旨が下ったのですが、北畠顕家は北朝勢の激しい攻撃にさらされる多賀城を捨て、伊達家七世行朝(ゆきとも)の招きに応じて霊山(福島県伊達郡)に拠点を移し、ここに,心あるみちのくの武将を結集し再び足利追討の軍を進めました。
 しかし、時代は大きく変わっていました。かつて、鬼神さえ恐れたといわれる奥州勢は各地で苦戦を強いられ北畠顕家は和泉国石津(大阪府堺市)で戦死を遂げます。北畠顕家が多賀城に入城してきたのが16歳のときで、もてる天性の資質でみちのくの武将の心をつかみ和泉石津で戦死したのが20歳のときです。父の北畠親房は後に後醍醐朝が正統であるとする「神皇正統記」を著しますが、そのなかで北畠親房は込み上げる感情の筆を抑えて、「時やいたらざりけん、忠孝の道ここにきはまりはべりにき。苔の下にうづもれぬものとては、ただいたずらに名をのみぞとどめてし。心うき世にもはべるかな」と記しています。
 また、南北朝時代の軍記物語である「太平記」は、「あはれなるかな顕家卿は、武略・智謀その家にあらずといへども、無讐の勇将にして、鎮守府将軍に任じ奥州の大軍を両度まで起て、尊氏卿を九州の遠境に追い下し、君の宸襟を快く休め奉られしそのほまれ、天下の官軍に先立て争ふ輩なかりしに、聖運天に叶わず、武徳時至りぬるそのいはれにや、股肱の重臣、あへなく戦場の草の露と消えたまえしかば、南都侍臣・官軍も、聞て力をぞ失いける」と記しています。